だきしめたい。 7

・・・・・from「だきしめたい。」

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 査問会の追及の風向きが変わった翌日、夕方には台風が接近するとかで、空は既にどんよりとたちこめる暗い雲に覆われていた。風も強くなってきており、昼を過ぎる頃には雨が降り始めるだろう。
 本日の堂上班のシフトは遅番。昨日の査問の対策会議のあと、午後から館内警備に入ることになっている。
 図書館の開館時間から二時間あまりずれた出勤時間は特殊部隊庁舎も人影が少なくなる時間帯だ。そんな人気の少ない事務室で、堂上は眉間にしわを寄せていた。
 まもなくシフトの定時を迎えるにも関わらず、堂上の隣の席がいまだ空のままだからだ。
「珍しいね、いつもならもうそろそろ来てる時間なのに」
 向かいの席の小牧も軽く眉をひそめながら言う。その口調は空の席の主……郁を責めるものではなくはむしろ、その不在を訝しむものだった。
 確かに他の隊員に比べると定時間際に駆け込むことの多い郁だが、そうは言っても最悪でも五分前には席についている。しかし今は、定時まであと三分、という時間だ。この時間になっても姿も見せなければ電話連絡もないのは初めてだった。
「メールもないの?」
「ない。ったく、何やってんだあいつは」
 ことりとも音を立てない携帯を手に、堂上は立ち上がった。
「こっちからかけてみる」
 そう言って事務室を出た。もし本当に欠勤するのならば、まったく連絡なしということはありえない。寮から庁舎までの間に行方をくらませるようなことがあるとも思えないし、だとすれば、まさか寝過ごしてやいないだろうな。
 ──昨日はひどく消耗していたし、できることなら休ませてやりたいとは思うのだが。
 そんなことを口にする気はないが、それでも、もしもそんなことを思っているのが知れたら「だから大丈夫だって言ってるじゃないですか!」とか逆に食ってかかられそうだな。そんなことを思いながら、堂上はアドレス帳から郁の名前を呼び出し、通話ボタンを押した。ピッピッピッ、何度かの電子音の後に、trrrr、とベルの音が鳴る。しかし、それと重なるように、携帯を押し当てたのとは逆の耳にかすかに別の音が聞こえた。
 ……これは?
 堂上は携帯を耳から離す。遠くなったベルの音の代わりに、かすかにではあるが、聞き覚えのある音……メロディが聞こえた。

 堂上教官からの着信音だけ変えたんですよー。他の着信と変えてわかるようにしておかないと、緊急の呼び出しって気づかないでスルーしちゃったりしたらまずいですもんね。

 笑いながらそう言う郁に、堂上にはどう考えても似つかわしくないやけにかわいらしいメロディを聞かされて顔をしかめたのはいつのことだったか。
 今、堂上の耳に聞こえるのは、確かにあの軽やかなメロディだった。
「笠原?」
 堂上は呼び出し中の携帯を再び耳に当てつつ、メロディの聞こえる方、階段へ向かう廊下を走り出した。着信音はしばらく応答がなければ自動的に終了して留守電に切り替わってしまう。その前に郁が通話に出るか、あるいは、切り替わる前に堂上が郁を見つけるか。
 早く出ろ。
 そう心の中で叫んだが、階段への曲がり角を曲がったところで耳元のベルと遠くのメロディは同時に途切れ、携帯からは留守電に切り替わるメッセージが流れ始めた。
 しかし、それと同時に、堂上は郁の姿を見つけた。
 階段の踊り場で、こちらに背を向け壁にもたれて座りこんだ郁を。
「笠原!」
 携帯を胸ポケットにぶちこんで階段を駆け下りる。その声も足音も当然郁にも聞こえているはずだが、なのに座り込んだ郁は堂上を振り返ろうともしない。
「笠原! どうした!?」
 階段で足を踏み外して傷めでもしたのか。最後は二段抜かしで飛び降りて背後から郁の正面に回る。しゃがみこんだ郁の目の高さに合わせて自分も腰を落とした堂上の目に飛び込んだのは、普段の健康的な肌色が嘘のような、紙のように白い郁の顔だった。その瞳は固く閉じられ、額には脂汗が浮かんでいた。息も浅く、荒い。
「おい、笠原!」
 堂上の呼びかけに、郁が薄く目を開けた。
「あ……堂上教官。すみません、電話、出られなくて。遅刻になっちゃいました?」
「アホウ、そんなことは構わん! 一体どうしたんだ」
 答える郁の声があまりにか細くて、堂上は動揺を隠せずについ大声になった。そんな堂上に、郁は弱々しい笑みを浮かべて、しかし再び目を閉じた。
「あー……すみません、部屋を出るまでは大丈夫だったんですけど、ちょっと調子狂っちゃったみたいで……」
「ちょっとって顔かそれが! 今にも死にそうな顔しやがって!」
「へ……き、ですよ? でも、すみません、ちょっとだけ、休ませてもらってもいいですか? ちょっと……やっぱり、だめ、かも」
 切れ切れに言って頭を壁に押し付けると、郁はまた「すみません」と小さく繰り返した。その口元から、何かツンとした匂いがした気がして、堂上はその匂いの正体を頭の中で探し始め、そして、見つけた。
「お前、吐いたのか」
 それは胃液の匂いだった。堂上自身は吐くほどの体調不良になったことなどめったにないが、酔っ払いの介抱でなじみのある匂いだ。
「やだ、わかっちゃいました? うがい、したのにな……」
 そう言って郁が再び目を開けるが、堂上を見るその視線が微妙に定まっていない。これは……
「堂上! ……笠原さん?」
 階段の上から小牧の声が降ってきた。目を上げると、階上に小牧と手塚がいた。堂上の走り出す足音を聞いて追ってきたのだろう。二人に頷いてみせると、堂上は郁の背と膝裏に腕を差し入れ、そのまま抱き上げた。
「やっ……!」
「お前、目ぇ回ってんだろ。そんなんで出歩くな、バカ」
 見た目にはわからないが、どうやら郁はひどい眩暈に襲われているようだった。堂上の言葉を否定しないところを見ると、その推測は当たっているらしい。眩暈でふらふらした状態で寮からここまで歩いてくる途中で気持ち悪くなって吐いたのに違いない。
「医務に連れてく。小牧、午後の警備シフトの調整を頼む」
 それだけ言って、小牧が「了解」と頷いたのを確認すると、堂上はできるだけ郁の頭を揺らさないように気をつけながら階段を下りた。医務室は一階の端だ。
「きょ、教官、大丈夫ですから」
「いいから黙って目ぇつぶってろ。もっと酔いたいか」
 吐いて立てなくなるほどの眩暈なら、目を開けているだけでも視界がぐらぐらに揺れて吐き気が助長されるだろう。堂上が言ってやると郁はおとなしく目を閉じた。青白い顔を堂上の肩にもたせかけ、浅い呼吸を繰り返す。
 このバカが、何こんな無理してんだ。
 堂上が郁を担ぎ上げるのは何もこれが初めてではない。飲み会のたびに部屋の隅に潜り込んだ郁を引きずり出し、寮までおぶって帰るのは常に堂上の役目だからだ。寝落ちした郁は完全に意識を投げ出しているから、その体も同じく完全に脱力して堂上に運ばれるがままになっている。本人にその自覚はまったくないが。
 しかし今、堂上が抱き上げている郁は、意識がある。それでもその体は、寝落ちしているときと同様に脱力しており、すべてを堂上に委ねていた。いや、そうするしかできなくなっているのだ。
 普段の郁からは想像もつかないような弱々しさに、堂上は唇を噛んだ。
 郁に眩暈の持病があるとは聞いていない。そんな人間がこれだけひどい眩暈に襲われるということは……堂上は以前、自分の母がひどい眩暈に悩まされていたときに聞いた話を思い出していた。

 眩暈の原因にもいろいろあるけど、疾患が原因でなくてもいくつかの要因が重なると眩暈発作が起きる場合があるのよ。
 まずは気圧の変化。急な低気圧とかね。それから心身の疲れにストレス。そして睡眠不足ね。あとは自律神経の不調と、母さんの場合は女だからね、女性ホルモンの兼ね合いもあって。そういう複数の要因が運悪く重なったときに起きやすいって言われてるわね。
 体調管理とか、ある程度は自分で気をつけることもできるけど、仕事の疲れなんかはねえ、忙しい時期にはどうにもならない場合もあるからねえ。ましてや低気圧なんてそれこそどうしようもないしね。

 そう言って薬を飲んでいたのは、ちょうど母の勤める病院で看護士の急な退職が続いて人繰りが厳しく、なかなか休みが取れないと嘆いていた時期だ。年齢的に更年期の問題もあったのかもしれない。
 では、郁は。
 心身の疲れと、ストレス。何を差し置いてもそれだろう。体力的な疲れは日ごろの鍛錬のおかげである程度カバーできているのだろうが、かれこれ一ヶ月半にわたる査問と、寮での針のむしろという言葉がこれほどまでに適切に使える場面も現代日本でそうそうにないのではないかという生活が郁の精神に及ぼす影響は計り知れない。その上、昨日の査問で郁の精神にかかる重圧はさらに増した。
 睡眠だって、この調子ではどれだけまともに取れているのか知れたものではない。
 そこへきて、これからやってくる台風だ。その急激な気圧低下が最後のとどめを刺したのに違いない。
 不運な偶然といえばそれまでかもしれない。しかし、台風がなくとも、眩暈という症状に表れなくとも、郁の疲弊が限界にあることは明らかだった。
 ……くそっ。
 肩口に郁の頭があるこの状態でその罵声を口にすることはできず、その代わりに堂上は腹の底から込み上げた何かと一緒にごくりと飲み込んだ。それに気づいたはずもないのに、郁が目を閉じたまま、相変わらずの弱々しい声で「すみません……」とつぶやいた。
 その瞬間、郁の背を支えた腕に……細い肩を包んだ手のひらに力がこもったことに、郁は気づいただろうか。


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