だきしめたい。 8・・・・・from「だきしめたい。」 |
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医務室に着くと、折悪く医務官が不在だった。とりあえず郁をベッドに下ろして横たえ、上掛けをかけてやると、堂上は部屋の中を勝手に探索して小さな洗面器と乗り物酔い止めの薬を探し当て、それからミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から勝手に拝借してベッドへ戻った。洗面器を枕元に置いて、郁に声をかける。 「また吐き気がしたらこいつに吐けよ。それからお前、水飲めるか?」 堂上の声に薄く眼を開けた郁が小さく頷く。 「よし。じゃあせっかく横になったとこ悪いが、もう一度ちょっと起きろ。そんで薬飲め」 「くすり?」 「乗り物酔い止めだがな、眩暈にもきくらしいから」 原因はともかく症状は乗り物酔いも眩暈も同じだから、急な眩暈発作の対処には酔い止め薬が有効だというのも母から聞いていた。特殊部隊の偉丈夫たちに車酔いするような者はいないのだが、それでも常備薬のラインナップには入っていたその薬を探し当てた堂上はほっと息をついたのだ。 「教官は物知りですね」 堂上に背中を支えられて上半身だけを起こして薬を飲んだ郁が小さく笑った。薬を口に含んだからと言ってすぐに効き目が表れる訳は当然ないのだが、ベッドに横になった安心感のせいか、顔色は相変わらず白いままとはいえ表情は先ほどより多少はやわらかくなったような気がする。 「うちのお袋も昔、眩暈で苦労してたからな。たまたまだ」 堂上は言いながら、薬を飲み終わった郁の背を再び倒してやる。枕に頭を沈めると、郁はほっとしたようにほうと息をついた。 「ホントにすみません……あたし、眩暈なんて初めてで。今朝起きたときに、ちょっとくらくらするかな、とは思ったんですけど、これくらいなら大丈夫かなーと思って動き始めたら、どんどん揺れが大きくなって……世界が回るって本当なんですね」 郁が焦点の定まらない目で天井を見上げる。その目に映る世界がどれだけ回っているのか、堂上には想像もつかない。 「いいから目ぇ閉じてろ。そんなぐるぐるするもん見てると余計気持ち悪くなるぞ」 とにかく早く落ち着かせたくて、堂上は郁の目の上に自分の手をかざした。とっとと目を閉じて眠ってしまえ。そして、早く元のお前に戻れ。 こんな弱々しいお前、見ていられん。 ……そう、薬を飲んで、眠って、それで治せるものならば。 眩暈はそれで治せるかもしれない。しかしそもそもの原因である郁にかかる重圧はそれではなくならない。たとえベッドから起き上がれるようになって、頬に血の気が戻っても、郁を苛む根本的な問題が解決していない以上また同じ発作を起こさないとも限らない。いや、起こすかどうかに関わらず、そんな苦しみからは一日も早く解放してやりたいのに。 原因の一端である俺に、一体何ができる。 昨日からずっと考え続けているその問題の答えを、堂上はいまだ見つけられないでいる。しかしそうしているうちにも、郁の心は日に日に削られ続けていってしまう── と、郁のまぶたにかざした堂上の手に郁の手が伸び、その冷たい指がそっと触れた。 そして不意に、指先を握りしめられた。 「……笠原?」 郁のまぶたは閉じられたままだが、口元に小さな笑みが浮かぶ。 「やっぱり、教官の手は、すごい」 「……何がだ」 「世界がぐるぐるに回ってても、堂上教官は、揺るがないでそこにいるんだ、って……世界はほんとは回ってなんかないんだって、安心、します」 そう言った郁の閉じたまぶたから、ひとすじ、涙がこぼれ……堂上の心臓が、ドクンと鳴った。 確かに、郁が言葉にしたのは眩暈のことだ。「辛くなったら言え」と……それが命令になったのか約束になったのかは堂上にはわからないが、とにかくそう聞かせたこととは違う。いや、だからこそ郁は口にしたのに違いない。 しかし、それでも。 それは郁が初めてもらした弱音だった。 自分の意思の届かぬところでぐるぐると回る世界。ゆらゆら揺れて立っていることもままならない足元。体の内に降り積もる苦さ。 不安なのだ。 こわいのだ。 そんなの当たり前だ。自分ひとりだけがすべての矢面に立って、すべてを受け止めなくてはいけなくて。 たったひとりで。 それなのに、郁は言うのだ。堂上の手をとって。 安心、します。 その言葉で目が覚めた。 たとえその原因の一端が自分にあろうとなかろうと、俺にできることなんか、ひとつしかない。──今までと同じに。 俺が揺らいで、どうする。 堂上は、郁の指に包まれた自分の指を伸ばした。離れることに一瞬おびえたようにすくんだ郁の指を逆につかまえると、自分の指を絡め、手のひらごと握りしめた。驚いた郁がうっすらと目を開けて堂上を見上げる。 「……教官?」 「当たり前だ。俺は、ここにいる」 だから安心しろ。 そう言うと、郁は「はい」と小さく答え……そして、その唇から弱い嗚咽が漏れ始めた。 郁はよく泣く。しかし、決して自分のためだけには泣かないことを堂上は知っている。 だが、本当につらいときは、心細いときは、自分のために泣けばいい。 そして気の済むまで泣いたら……また、自分の足で立て。どんなにへこたれても、潰されても、絶対に立ちあがる。それがお前だろう? 俺はいつだって、必ず、お前のそばにいるから。 お前がすくんで動けなくなったときでも、迷ったときでも、俺は必ずここにいるから。ずっと見てるから。 安心して、自分の足で立って、走れ。 そして── 「笠原。査問のことだがな」 堂上は郁の手を握りしめたまま静かに言った。 「間違っても俺たちをかばうためにお前が泥をかぶろうとするなよ。自分のしたことの責任は自分でとる。──お前が今すべきことはわかってるな?」 堂上の問いに唇を噛みしめて頷く郁に、堂上は頷き返す代わりに、握った手に力を込めた。 「おそらく、査問はますます厳しくなる。余計なことを考えてる余裕なんかないぞ。お前はお前のすべきことをしっかりやって、」 そして。 「ここへ、胸を張って帰ってこい」 俺は、ここにいるから。 「……はい」 郁は目を閉じたまま、小さく、しかし、しっかりと、答えた。 * 薬が効いたのか郁はほどなく眠りに落ち、ちょうどそのタイミングで不在だった医務官が戻ってきた。事情を説明して引き継いだ堂上が事務室に戻ると、小牧が待っていた。 「手塚は?」 「うちの午後の警備を青木班に委任したから、そっちのシフトに組み込んでもらった。元々屋外訓練の予定だったのを台風だし室内に切り替えるかって言ってたところだったから、ちょうどよかったよ。で、笠原さんは?」 「ひどい眩暈だったようだ。薬を飲ませて寝かせたから、少しは落ち着くんじゃないかと思うが」 「……堂上も落ち着いた?」 唐突に投げられた問いに、堂上は小牧の顔を見返した。その顔は相変わらず穏やかな笑みを浮かべているが、そこにからかいの色はない。堂上は、その顔をまっすぐに見て、頷いた。 「そうだな」 「ならよかった」 わずかに表情を緩めて、小牧は手元のノートに目を落とした。──郁を守るために作られる、査問対策集。 「じゃあ、やろうか」 「ああ」 ノートを手にした小牧と共に、堂上は隊長室へと入って行った。 |
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