意趣返し 1

・・・・・from「だきしめたい。」

 いつか玄田をして広報向きと言わせた、誰に対しても人当たりの良さそうな明るい微笑み、しかしその実なにもかもを跳ね返しそうな──まるで防弾ガラスのような人だと、六年前と同じ印象を抱きながら、郁はその背中に声をかけた。
 振り返ったその顔は少しばかり驚いているように見えたが、それは一瞬のことで、すぐに見覚えのある穏やかな、しかし掴みどころのない笑みを浮かべた。
「やあ、笠原さん。いや、堂上さんだね。君から声をかけて頂けるとは思わなかったな。堂上一正も。二人には光がいつもお世話になっているね」
 並んで立つ二人……堂上と郁は、相手とは対照的にやや固い、それでも笑顔で向き合った。堂上が軽く頭を下げる。
「遅くなりましたが、このたびはおめでとうございます」
「ありがとう。君達がいなかったら光たちもこうしてこの日を迎えられなかっただろう。兄として心から礼を言うよ」
 にこやかに言う『兄』──手塚慧も、向き合った堂上と郁も、手には大きな紙袋を下げた盛装である。
 ここは都心のホテル。
 手塚と柴崎の結婚披露宴がつつがなく終わり、招待客が二次会までの時間をぼんやりと待つロビーで、三人は実に六年ぶりに対面していた。顔を合わせるのはこれが二度目。初めての対面は、図書基地近くのレストランへ、慧に取り込まれようとしていた郁を堂上が迎えにいったあのときである。
「あの、手塚さん。今少しお時間ありますか?」
 郁が慧に尋ねた。ややおそるおそる、という風情を帯びるのは、やはり初対面の印象が拭えないからか。
「構わないよ。何かな」
「あの、あたし……手塚さんにどうしても聞きたいことと、言いたいことがあって」
 郁がそこまで言ったところで、堂上が郁の肩をぽんと叩いた。
「俺はあっちで待ってる」
 それだけ言って、慧に「失礼します」と一礼するとくるりと背を向けてロビーの奥へ歩いて行ってしまった。
「あ、篤さん……」
「彼は聞かない方がいい話なのかな?」
 愉快そうに微笑む慧の顔に、郁は複雑な心境になる。
 確かに、聞かれるのはちょっと恥ずかしい。でも篤さんに関係ない話じゃないし、何が何でも内緒話にしたい訳でも──
 ……あ、そうか。
 郁は気づいた。
 当時、彼は郁と慧のやりとりを結局見聞きはしていない。そして、慧から届いた手紙に何が書いてあったのか、あのときも、そして結局今に至るまで見せていない。もちろん今となっては何を知らされたのか隠す必要もないので伝えてはあるが、まさかあんな、明らかに相手の恋をいたずらにからかう文章をそのまま見せる気にはどうしてもなれなかった。そして堂上も、あれから一度も手紙を見せろとも何が書いてあったと聞く事もなかった。ただの部下であったときも、恋人になってからも、結婚してからも、一度も。
 そして、この場の会話にも自分はいない方がいいと判断したのだろう。郁の気持ちを汲んで。
 まったくもう、どこまでも甘い旦那さんだ。
 郁は苦笑し、そしてあらためてまっすぐに慧を見た。その視線にひるむこともなく、慧は軽く微笑んでみせた。
「俺で答えられることならなんでもどうぞ?」
「手塚さんじゃないと答えられないことです。あの……」
 言いかけて、郁は一瞬だけためらった。こんなことを聞くのはやっぱり恥ずかしいし、確かに今更、とは思う。しかし、この機を逃せばきっと一生この人とは接点がない気がした。たとえ親友の兄だとしても。この人とあたしの行く道は、目的地は同じはずなのにあまりに遠すぎるから。
 だとすれば、やっぱり。
 郁は覚悟を決めると、すう、と息を吸って、言葉を吐き出した。
「どうしてあのとき、あんなこと書いて寄越したんですか」
 具体的にこれと言わなくても、二人の間に書簡が行き交ったことなど一度しかない。
 堂上こそが郁の『王子様』だと、それで郁がどれだけの衝撃を受けるのかをわかっていたからこそ、郁の淡い思いをからかうように敢えてもののついでのようにさらりと走り書きされた言葉。
 果たして、一気に知恵熱を出して寝込み、一晩中夢を見て泣き続けたことも(あげく翌日には動揺のあまり堂上を大外刈りで落としたたことも)、今となってはよい……かどうかは微妙だが、しかしあれがなくては今の自分はなかった、大事な思い出になりはした、のだが。

 慧からすれば、郁ごとき頭の悪い小娘など取るに足らないコマの一つに過ぎないはずなのに、なぜわざわざあんな嫌がらせじみたことをされなければならなかったのか。

 確かに郁は手塚を慧の手中にする企みを拒否したのだから、意趣返しをされてもおかしくはないのかもしれないが、それにしても──むしろ大人げない、という印象の方が、あれから年月を経て振り返る程に強くなる。慧が本気で意趣返しをするのなら、もっと徹底的に、文字通り郁が立ち直れなくなるまで潰しにかかるくらい朝飯前だったはずだからだ。離れた場所からとはいえ、あれからの六年の年月の間に見て来た手塚慧という人間の手腕を思えばこそ、郁はその思いが拭えなくなっていた。
 当時はとにかくもたらされた衝撃に振り回されるばかりでそんなことなど考えもしなかったが、そういえばあのとき相談にのってくれた小牧も「子供じみたいやがらせ」と言っていたような気がする。
 一体、なぜあんなことを。
 郁が簡潔に投げた問いに、慧は笑って答えた。
「そりゃあ、君への仕返しに決まってるだろう。俺の計画に乗って動いてくれなかったんだから、腹もたとうってものだろう?」
「そりゃ、そうかもしれませんけど……こんな言い方は失礼かもしれませんけど、何と言うか、手塚さんらしくないと言うか」
 慧から返って来た答えはある意味予想通りで、しかしやはり郁は何かはぐらかされているような気がしてならない。それでつい素直にこぼしてしまった言葉に慧が軽く苦笑した。
「それは褒められてると思っていいのかな」
「……どう取られるかはお任せします」
 返しようがなくてそう言ってみるが、きっと自分の言わんとしたことは伝わったのに違いない、郁はそう思った。そして、これ以上押してもきっと何も返ってこないとも。
 彼の心中は、きっと、これからも明かされないのに違いない。
 それで、質問を変えることにした。そもそもはこちらが先だ。
「大体、なんであんなこと知ってたんですか。あの、王子様……なんて」
 あれから六年の間に、問題の『王子様』だった堂上と思いが通じ、そして結婚した今となってもとにかく恥ずかしくていたたまれないのだが、それでも確かに『王子様』は郁にとって心から大事な、誰にもさわられたくない宝物だった。正体がわからなかった当時はなおさらである。だから『王子様』のことを誰彼構わず話したりした覚えはない。
 何よりそれ以上に堂上が徹底してしいて回った箝口令のおかげで、郁と堂上が付き合い始めるまでは周囲もおおっぴらに騒ぎたててはいなかったように思うのだが、それ以前の査問の時期になぜ、関東図書基地に常駐していた訳でもない慧がそんな個人の事情まで細かに把握していたのか。
 これでこの人、案外ゴシップ好きだったりするのか?
 郁がそんなことを考えていたら、目の前の慧がいきなり噴き出した。まさか、よりにもよってこの人が声をあげて笑うところを見ようとは夢にも思っていなかった郁は本気で目を丸くした。
「な、なに笑ってるんですか!」
 思わず非難がましい声をあげた郁に慧は口元に手をあてて「これは失礼」と言ってはみせるが、その笑みは残念ながら止まらない。くくっと無理矢理笑いを喉に押し込んだような声をあげた慧が軽く手をあげた。
「いや、まいった。君はいまだに自分がどれだけ注目を集めて人に見られているかって本当にわかっていないんだな。いい加減、もう少し自分の立場を自覚した方がいいと思うけどね、俺は」
 郁の立場──女性初、そして唯一の特殊防衛員であること。その看板は配属から今に至るまで既に七年以上たつのにいまだ掛け換わっていない。それだけ郁のいる立ち位置が得難く、また難しいものであることを如実に示しており、だからこそ、郁に対する注目は今も変わらずあり続ける。
 しかし郁にすれば、確かに自分は他に類を見ないポジションにはいるが、それは言うなれば「男の中に女が一人」と子供が囃し立てるようなレベルのものでしかなく、だから、ことさらに注目とか立場とか言われても、いまだにピンとこない。
「そ、それくらいわかってますけど! でも、そんなプライベートな話まで広まるほどのものじゃないと思うんですけどっ」
「それを、自覚がないって言うんだと思うんだけどね」
 ようやく苦笑を抑えることに成功したらしい慧がばっさり切ると、郁はとたんにしゅんとなった。そ、そうかな、とか口先だけでぶつぶつ言っている郁に、慧は言葉を続けた。
「君の『王子様』の話は有名だったし……君の入隊時の面接はいまだに監以上の人間の間じゃ語り草だしね、そりゃ俺の耳にだって入るさ。それに堂上一正の入隊当時の査問の話もある年代以上の人間はみな知ってる。それを結び付けるのは俺でなくても簡単なことだよ」
「あ、ああ……そうか。そう、ですね……そ、か……」
 言われてみれば、疑問に思い続けていたのが不思議なほどに単純な種明かし。郁は、なんだか妙に体の力が抜けてしまった気がした。
 しかし、ふと思う。
 実は多くの人々が知っていたのにも関わらず、堂上のしいた箝口令は二人が実際に付き合い始めるまで見事に機能し続けた。それは、事実を知る人々がどれだけ堂上や郁のことを大事に思っていてくれていたのか、ということで(そりゃ半分くらいは成り行きを楽しむ目論見もあったのだろうが……特に特殊部隊の面々あたりは)、その人々の気遣いに郁はあらためて感謝した。
 そして、だからこそ。
「それで? 堂上さんは、そんな昔の話を蒸し返してどうしたいのかな? 今更何か言い返したかったのかな。当時のあれこれについては俺は何を言われても当然と思ってるから、存分に言ってくれて構わないけれど」
「違います。あたし、手塚さんにお礼を言いたくて」


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