月がとっても蒼いから 1

・・・・・from「だきしめたい。」

「笠原、来週の公休は箱根で温泉よ!」
部屋に戻ってきたなりびしいっと音を立てそうな勢いで指差す柴崎に、出迎えた郁は思わず「はァ?」と声をあげてしまった。
「来週って、あたし柴崎と公休重なってないよね」
 月の終わりに確定する次月のシフトは毎月お互いにつき合わせて、うまく重なれば二人で買い物に行くのが入寮以来の習わしだ。しかし、配属が違えばなかなかそううまく公休が重なることもなく、あげく今月は一度も重なる日がないはずだった。残念ねえ、と先月末にため息をこぼしたのは柴崎の口ではなかったか(しかしそのため息が、柴崎からの借りとなっているデザートビュッフェおごりのチャンスを逃したからだということを郁は知っている)。
 その柴崎は郁の言葉を完璧に無視しつつ、ふふふーんと鼻歌を歌いながら、自分の鞄から封筒を取り出した。細く白い指がその封筒を開け、取り出したものを郁の鼻先につきつけた。
「……宿泊券?」
 そこに書かれていたのは、箱根の旅館の名前だった。目をぱちくりさせて、郁は視線を宿泊券の向こうの柴崎に向けた。
「そう。一室二名様ご招待。富士を望める露天風呂で富士見酒が飲めちゃう素敵なオプション付き! これに行かずしてどうするって言うの!」
 宿泊券をぺちりと郁のおでこにはたきつけると、胸の前で手を組み目をきらきらさせながら天を(天井を)見上げた柴崎は、言ったセリフさえ気にしなければ往年の少女漫画もびっくりのときめきっぷりだ。そしてもう二十四歳だというのにそれが実に様になる。おそるべし、柴崎麻子。
「いや、そのオプションはあたしには関係ないけど……だから、何がいきなりどうなってこうなのよ?」
 一年半近い同室生活だから、指示代名詞だけでも会話は成立する。郁はおでこからはらりと落ちた宿泊券を手に、呆れた顔で柴崎を見返した。
「だいたい、いきなりそんなこと言われたって、あたし、そんなに急に休み取れないよ?」
「あ、それは心配無用。既に手は打ってあるわ」
「はい?」
「さっき玄田隊長と緒形副隊長にOKもらってきた。あたしと同じ日に連休取っていいって」
「なんだそりゃー!?」
 既に決まった公休を変更することだってそもそも難しいのに(特に郁の所属する防衛方は、下手に予定を変更すれば訓練スケジュールや警備シフトなどに影響が出るため、余程のことがないと許可されないし、そもそも郁自身もそれをわかっているからそんな変更申請を出したことがない)、その上連休となれば、相当無理があるはずなのだが。いや待てそれ以前に。
「なんであたしの公休をあんたが勝手に変更してんのよ!」
「だってえ、どうしてもここの休みで行きたかったんだもん?」
「だもん、じゃねえ! だったら他の子誘えばいいじゃない! そんな勝手な変更して、隊に迷惑かけちゃうでしょ!」
「バカねえ、あたしがそんな片手落ちをすると思ってんの? ちゃんとその辺の調整もばっちり済ませて不自然のないようにして許可とってきたわよ」
 そう言う柴崎の顔は完璧な勝者の微笑みだった。
 やる。この女ならやる。
 郁は自分の運命が柴崎に完全に握られていると本能で理解した。そうであるからには、これ以上何を申し立てても無駄だ。柴崎との一年半の同居生活はそんなことまで郁に叩きこんだ。はああ、とため息をついてがくりと肩を落とす。ああ、明日出勤したら、みんなにお詫びしなきゃ……でもなんて謝ればいいんだこの場合。言い出すきっかけの言葉さえ思いつかず、郁は途方に暮れてもう一つため息をついた。
「ほらほら、そんなにため息ばっかりつきなさんな。せっかくタダで行けるんだから」
「誰のせいだと思ってんのよ! ……ていうかそもそも、どうしたの、コレ」
 手にした宿泊券をひらひらとかざすと、柴崎がにんまりと笑った。
「なんかの懸賞で当たったって言うのをもらった」
「……誰から」
「んー、業務部のひと? よかったら、って言うから、ありがとうございます笠原と行きますね、っつってありがたく頂戴してきた」
 着替えながらさらっと言う柴崎を、郁はぎょっとして振り返った。
「それ……男の人?」
「そうよ? それがなにか?」
「うっわあ、あんたどんだけ鬼なの!? それってそういうことなんじゃないの!?」
 純情乙女な郁でもさすがにそれくらいわかる。しかし唖然とする郁を振り返る柴崎は平然としたものだった。
「何言ってんの。このあたしを落とそうって言うのに、懸賞で当たったからなんてついでみたいに言うバカは論外よ。あーあ、あたしも安く見られたもんねえ。最近ちょっと笑顔の安売りしすぎたかしら?」
 それに、どうせ元手がかかってないものなら、取り上げられたって痛くも痒くもないでしょうよ。
 柴崎はばっさりとそう切って捨てる。でもそれって、照れ隠しにそう言っただけで本当は実費払って買ったやつかもしれないじゃん……と郁は思ったが、ことこの手の話題で(いや正しくはそれ以外でも)柴崎に反論して勝てた試しなどないので、誰とも知れない相手の男子隊員に「ご愁傷様でした、でも相手が悪かったよ」と心の中でだけ手を合せるしかなかった。
 郁のそんな心中も知らず、柴崎は食堂に行くために財布を手に取りながら言った。
「だからさ、とっととメシと風呂済ませて足確認しよう。箱根だったら素直に新宿まで出てロマンスカーがいいわよね。向こうではバスの周遊券でも買うかしら」
「現地でレンタカー借りる? 運転するよ?」
 郁もあわてて財布を手に取りながら言うと、
「……あんた、あたしに命の洗濯させたいの?」
 と、柴崎にじと目で睨まれた。
「ひっど、あたしの運転見たことないくせに!」
「見なくていい、想像だけで十分白くなる」
「何それー! 失礼にも程がない!?」
 かくして、お年頃の女子の夜は更けていく。


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