月がとっても蒼いから 3

・・・・・from「だきしめたい。」

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「え、ご飯、部屋出しなんだ!」
 部屋に戻った郁が目をキラキラさせる。旅館の食事と言えば、子供の頃の家族旅行でも、学生時代の合宿でも、大広間でみんな並んでいただきます、しか知らないから、部屋出しの食事と言われるとなんだかすごく高級な旅行に来た気がする。
 ……あの宿泊券、本当に懸賞で当たったのならよかったんだけど。
 実費だったらいくらするのかと想像して、郁はひええー、と自分が払う訳でもないのに肩を縮めた。
 露天風呂から戻ってきて一休みし、ちょうど体の火照りが一段落した頃に部屋のドアベルが鳴った。はーい、と開けると仲居さんで、「失礼します、お食事の用意をさせていただいてよろしいでしょうか」と声をかけられた。お願いします、と返すと、「お飲み物はいかがされますか?」と聞かれ、二人は顔を見合わせた。
「柴崎、飲んでいいよ? あたしお茶飲んでるから」
 郁はこんなところに来てまで柴崎に迷惑はかけられないからと自主的に酒を辞退したが、意外にも柴崎は「ビールをとりあえず一本、グラスは二つで」とオーダーした。かしこまりました、と仲居さんが下がって行くと、郁は「いいの?」と柴崎を振り返った。それに柴崎はいつもの調子で「たまにはいいんじゃないの」と返した。
「こんなところで一人で飲むのもさみしいしねえ。それにせっかくの部屋出しなんだもの。このまま潰れてもどうせ寝るのはこの部屋だし。堂上教官に運んでもらう必要もないしー?」
「うわっ、それは言うなー!」
 自分が特殊部隊の飲み会のたびに酔い潰れては堂上に部屋まで運ばれているのはもちろん承知している。そのたびに怒られて謝って、それでも毎回繰り返してしまう自分は相当ダメな部下だよなあ、と郁は思う。
「ま、こんな機会二度とないかもしれないし」
 また誰か懸賞で当たった宿泊券でもくれれば別だけどぉ?
 にんまりと笑う柴崎がこわい。そんな不幸な人はもう二度と出ない方がいいと郁は本気で思う。とすれば、確かにこれは貴重な機会だろう。
「うわーい、じゃあ今日は飲んじゃおう!」
 思わずばんざいをすると浴衣の袖がばさりと広がって、「あんたどこのお子様よ」と柴崎が顔をしかめた。
「ホントに潰れたら畳の上に転がしとくわよ」
「せめて掛け布団くらいはかけてよ」
「前向きに善処します」
「うわっそれ絶対放置だ! 大事な同期が風邪引いてもいいの?」
「そんな厄介なシロモノは置いて帰ります」
「ひでっ!」
 そんなバカな話をしていたら、ほどなく食事とビールが運ばれてきた。
 お互いにビールをお酌しあってまずは乾杯。
 それから、あれがおいしい、これがおいしいときゃあきゃあ言いながら食べ始めた。箱根は山の中だが、東に相模湾、西に駿河湾と海を控えた場所でもあるから、山の幸も海の幸も豊富だ。その素材のよさを十分に生かした料理はこの年頃の女性には少し贅沢にも思われた。
「ほーんと、おいしー! こんなにおいしいご飯、初めて食べたかもー!」
 お箸片手の郁は笑顔満面だ。珍しくビールもちびちび飲みながらだから、テンションも余計にあがっているのかもしれない。そんな郁を半分微笑ましく、半分呆れて見返しながら、柴崎は自分のグラスにビールを手酌した。そろそろもう一本追加、それとも熱燗でも……と思いながら柴崎が顔を上げると、正面の郁が箸を手にしたまま固まっていた。どうした、と見守っていたら、ふいにぽろり、と涙がこぼれた。一度こぼれてしまえば、あとからあとからとめどなく、郁の瞳からは涙があふれ続ける。
「あ……あれ? どうしたのかな、あたし」
 郁はあわてて箸を置くと、右手の甲で涙をぬぐう。しかしぬぐう水分よりあふれる涙のがずっと多くて全く追いつかない。
 どうして、なんでこんなとこでいきなり泣いてんのあたし? 自分の身に起きていることなのにその理由がわからず、郁は困惑する。そして涙は止まらないままだ。
 そんな郁に、ほら、と柴崎は部屋備え付けのボックスティッシュを座卓の下から滑らせて寄こした。
「泣くほどおいしかったんなら、よかったじゃないの。ほら、拭きな。まだあと締めのご飯とデザートが来るのよ」
「う、うん……ごめん、柴崎。変だよねあたし、ご飯の最中にいきなり」
「別にぃ? あんたが変なのは今に始まったことじゃないし。泣くほど喜ばれたら板長さんも願ったりかなったりじゃないの?」
 人が目の前で泣いているというのに、相変わらず柴崎は容赦ない。ぐずる合間に「そうかな」と言いながら、郁はティッシュを何枚か取り涙をぬぐう。その郁に、柴崎がぽんと言葉をを投げた。
「おいしかったんでしょ?」
 問いを受け取った郁は一瞬ぽかんとする。しかし、次の瞬間には再び涙があふれだし、手にしたティッシュに顔をうずめた。
「うん、おいしい……すごくおいしい」
 高級な食事だから、だけじゃなくて。
 行きのロマンスカーで食べたデパ地下のお弁当も。
 関所のそばで食べたおまんじゅうも。
 こんなにご飯がおいしいと思ったのは……久しぶりだ。その事実に気付いて、郁の涙はますます止まらなくなった。

 査問が始まり、寮や食堂での食事に味がしなくなってから一か月以上。いつもどおりに、下手をしたらいつも以上に食べても、食べた気がしなかった。
 それでも、食べなかったら負けだ、と思ったから食べた。
 だからなおさら、味なんかわからなかった。
 わからなくてよかった。負けなければ。倒れなければ。
 食事はただのエネルギー補給だった。それでいいと思った。
 だけど……違う。

 ごはんは、おいしい。

 そして、誰かと一緒に、楽しくおしゃべりしながら食べるごはんは、もっとおいしい。

 そんな当たり前で、だけどすごく大事なことを、忘れかけていた。
 よかった。
 あたしは、ちゃんと、ごはんをおいしいと思える。
 忘れてない……こわれてない。
 だから大丈夫。負けない。倒れない。
 あたしは、大丈夫。
「おいしいねえ!」
 ぐいっと涙をぬぐってから、郁は顔を上げて言った。「そりゃよかったわ」とそっけなく言う柴崎の顔が、いつもより少し優しく見えたのは、きっと、気づかなかったことにした方がいいのだと郁は思った。


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