春咲小紅 2・・・・・from「ギモンケイの二人」 |
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不意にその言葉がこぼれたのは、それを紡いだ唇まで、堂上のそれがあと五センチのところだった。 ぴたりと、堂上の動きが止まる。次の瞬間には、まるでそんな接近などなかったかのように元の距離に戻っていた。……郁の頬を包んだ手は離せなかったが。 俺は、いま、何をしようとしていた? そして、その俺に、笠原は「誰?」と問うた。甘い瞳のまま。 俺を、俺だと、認めなかった。 妙にクリアになった頭に、先程の郁の声が繰り返し響いてはガンガンと痛む。かすれるような小さな声だったのに。 そして堂上の手の中の郁は、少し、おびえているように見えた。 ……いっちょまえに「女」の顔をしてみせるくせに、「男」の顔の俺は認めないってことか? そう思ってしまってから、堂上は、自分のその考えに動揺した。 郁にとっての自分は「信頼できる上官」である。それは、ようやく手にした、郁から「堂上」への評価。 それを手放すつもりはない。だから、郁に対して自分が、「上官」ではない顔を見せるつもりなどなかったのに。 なぜ、そんな顔を見せてしまった? そしてなぜ、それを拒否されて、こんなにも動揺している? その答えは、自分が一番よくわかっている。 しかし、その問いも、答えも、今は必要のないものだ。 だから。 頬をはさんだ手のひらを離し、一息おいてから、ぱぁん! と景気のいい音をたてて郁の両頬をはたいた。 「ギャッ!」 色気などまるでない悲鳴をあげて郁がとびあがる。いったぁ……? と頬をさすりながら堂上を見る目は、もう、完全に夢から覚めていた。 「あ……れ、堂上教官?」 「あれ、じゃない! この酔っ払いが!」 怒鳴られて肩を縮ませる郁に、先程の「女」の面影はない。いつもの、子犬のような、くるくるとよく色を変える瞳を持った部下だった。 ……もう、大丈夫だ。いつもの笠原だ。 思わず安堵のため息がもれる。何が大丈夫なのかは考えないようにした。 「目が覚めたんなら帰るぞ。もう一人で歩けるな?」 言いながら堂上はベンチから立ち上がる。しかし、その背後で郁があれ? あたしなんでこんなとこに? とかぶつぶつ言っているのを聞いて、つい手が出てしまった。 「あいたっ!」 ゴツンと鈍い音をたてて落ちたゲンコツに郁が再び悲鳴をあげる。はたいたり殴ったり、教官、横暴です! 言い募る郁に堂上は思わず怒鳴り付けた。 「酔い潰れたお前をここまで引きずってきた俺に感謝しこそすれ文句を言うとはいい度胸だ! 俺はもう帰るぞ。これ以上酔っ払いに付き合ってられるか!」 八つ当たりだ。わかっていても沸き上がる苛立ちを隠せないままに放った堂上の怒鳴り声に、郁が弾かれたように立ち上がる。……が、まだ足元が覚束ないのか、ぐらりと体が傾ぐのに、堂上は思わず支えの手を伸ばした。おかげで、すんでのところで郁は倒れずに済んだ。 「……す、すみません、ありがとうございます」 「気をつけろ、アホウ」 目を合わせないまま、郁の肩を支えていた手を離す。今度は一人で立てたのを確認して、堂上は郁に背を向け歩き出そうとした、そのとき。 「あ、あのっ!」 すがるような声に、堂上はびくり、として振り向いた。そこにはバッグを握りしめて、軽く俯いた郁が立っている。 「あ、あの」 わずかにかすれたその声に、かすかに先ほどの「女」の気配を感じて堂上はひそかにひるむ。確かにこいつは年頃の女だ。それはわかっているが、それでも、「らしくない」と思ってしまう。そんな声、本当に、お前らしくない。頼むから、いつものお前でいてくれ。そうでないと、こっちの調子が狂って仕方がない。 「なんだ、用なら早く言え」 その声に苛立ちがにじんでしまうのは郁のせいではない。だのに、その声のせいで肩を縮込ませる郁にかける正しい言葉を堂上は知らない。己の語彙の少なさに舌打ちしそうになったときに、ようやく郁が口を開いた。 「あの……まだ、ちょっとふらつくみたいなんで……ちょっとだけ、つかまって歩いてもいいですか」 その、「らしくない」小さな声に、堂上は目を見張る。それを見た郁が慌てたように、いつもの元気な声で「あのやっぱりいいですごめんなさい!」とぶんぶんと手を振った。が、本当にまだふらつくのだろう、振り回した手に自分が振り回されて、再び郁の体が大きく傾ぐ。 「うわっ!」 「おいっ!」 今度は、肩を支えてやるだけでは済まなかった。後ろへぐらりと倒れそうになった郁の手を掴んで引っ張ると、その勢いのまま、郁の体が堂上の方へ倒れこんできた。自分が倒れないように足をふんばり、郁の体を支えようとした結果として、堂上が郁を抱きかかえるかっこうになる。 鼻先にふわりと郁の髪が揺れた。やわらかくて、ほんのりシャンプーの香りが残るそれに、堂上の頭がくらむ。 ……だから、調子が狂うと言ってるだろうが! 決して口にしていないその言葉を盾に、堂上は郁を抱く腕に力を込めた。 抱きしめたその体が思いのほか細くて堂上は息を呑む。それではっと我に返り、あわてて腕の力を緩めた、そのとき。 きゅ、と、郁の手が堂上の服の裾を掴んだ。 まるで、行かないで、とでも言うように。 そんなことあるか。自分の頭に浮かんだ虫のいい思い付きを打ち消すように堂上はぎりりと奥歯を噛む。単に、まだふらついているから掴まるところを探しているだけだ。それがたまたま、俺の服だっただけで。 だが、本当にそうであるなら。 「……歩けるようになったら言え。それまでおとなしくしてろ」 堂上は、緩めた腕の片方はそのまま郁の背中に、もう片方は堂上の肩にもたれた郁の頭の上に乗せた。ぽんぽん、と軽くたたく。 お前を支えてやりたい。その気持ちは、許される、と、思う。 やがて、「すみません、ありがとうございます」と、肩口から小さな声が聞こえた。……と思ったら、それきり、郁の反応が消えた。そして、その体ががくんと膝から崩れ落ちた。 「おいっ!? 笠原!!」 堂上はあわてて再び腕に力を込め郁の体を抱きかかえる。堂上の胸元までずり落ちた郁の顔は……すやすやと寝息を立てていた。 ……アホか貴様、ここで寝るか!? 完全に脱力した郁の体はあたたかで、まるで子供のようだった。その安心しきったような寝顔も。 まったく……勘弁してくれ。堂上はひとつため息をついて、郁の体をおぶうために自分の背中に回す。寝入ったがために重くなるかと思ったら、思いのほか軽い郁を背負いながら、堂上は心の中でだけ問いかける。 なあ、笠原。お前、子供なのか、大人なのか、一体どっちだ。 答えはわかりきっているのに、それでも問うてしまうのは、堂上の中でまだ切り替えがうまくできていないからだ。その理由を郁に押し付けようとしているだけだということに、堂上自身も気づいていた。 ああ、くそ。 誰にあてるでもない小さな罵声が夜の闇に溶けて行く。 ふと視線を落とせば、堂上の胸の前に郁の腕がぶらんとぶら下がっている。白い指が力なく揺れていた。 そういえば、あの「ぺしぺし」は一体何だったんだろう。堂上の腕をへなへなと叩いていたその指を見て思い出すが、きっとその答えを得ることはないだろうな、と、思う。どうせ明日になればすべて忘れてるんだろうしな、こいつのことだから。 ああ、もう、全部忘れてくれ。それで、また明日からはいつものお前に戻ってくれたらいい。 それで、また、あの明るい瞳でまっすぐに見つめてくれたらいい。 あの甘い瞳も、抱きしめたぬくもりも……俺だけが覚えておくから。 よいせ、と郁を背負いなおして、堂上は寮への道を歩き始めた。 |
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fin. |