大人の科学 1

・・・・・from「ギモンケイの二人」

 表面張力。
 そんな言葉があったな、と思いながら、それを無力化するべく、柴崎はグラスの縁に口をつける。もとからグラスを受ける桝へあふれていた酒がまた少しあふれたが、構わずグラスを少し傾けると、そこから先は桝ではなく柴崎の口の中へまっすぐに流れ込んだ。一口、二口飲んで、グラスから手を離す。縁から一センチあまり下になった水面が、天井からのやわらかい明かりを映してゆらゆら揺れた。
「ん、おいし」
 やっぱり、チェーンの居酒屋で飲む酒よりずっとおいしいわ。
 思わず呟いた柴崎に、カウンターの中からおかみが「おおきに」とにっこり笑った。
 そりゃ当然よね、とやや気まずい思いを隠しつつ、こちらもにっこりと笑みを返してから、柴崎は隣で同じく日本酒を傾ける手塚を見遣った。
 手塚が飲んでいるのは柴崎の選んだ銘柄だ。

 お前、日本酒好きだよな、お勧めとかあるのか?

 そう言う手塚に、柴崎は、以前手塚が別の店でチョイスした焼酎の銘柄を頭に並べてから、辛口めのすっきりしたものを選んでやった。
 手塚は柴崎と同じようにグラスにお出迎えして少しだけすすってから、グラスを持って味わうように一口飲んだ。手塚の一口は柴崎のそれより多い。
「うまいな、これ」
 多分に感嘆を含んだ声で、手塚が素直にうまそうな顔をする。
 その顔に、柴崎は、あ、と思う。
 なんか……今の。
「あたしのセレクトだもの、当然よ」
 いつもの調子で返し、それにいつものように肩をすくめて見せる手塚を見ながら、今の感じには覚えがあるのよね、なんだったかしらと考える。そして、目当ての記憶に思い当たって、柴崎は思わずぷっと噴き出した。
「なんだよ、いきなり」
 グラスを手にした手塚が不審気な顔で柴崎を見る。これ言ったら怒るかしら。少なくともむくれるわよね。
「さっきのあんたの顔。どっかで似たようなの見たことあるなーと思って」
 なんだ? という顔で手塚が黙って先を促す。その顔に柴崎はふふっと笑いかける。手塚以外の男なら一目で陥落しそうな極上の微笑みで。
「で、思い出した。お土産したお菓子を笠原がおいしそうに食べるのに似てるのよ」
 瞬間、手塚が目を見開いた。と思ったら、その肩がまるでマンガのようにがっくりと落ちた。
「笠原と同じ扱いかよ……」
 むくれると思ったらへこんだか。柴崎は思わず小さく声をたてて笑った。なーに、この、かわいい子犬ちゃんは。
「あーら、手塚士長は一体何を期待してたの?」
「別に! 何も期待なんか。第一、なんで笑われてんだって話なんだから、いいネタな訳ないのはわかってたし」
 その割には随分としょぼくれたこと。おかしくって笑いが止まらない。柴崎がくつくつと笑っている横で、手塚が仏頂面で酒を飲む。
「せっかく、選んでもらった酒をうまいと思って飲んでるんだから、変に茶化すな」
 ……あら。
「それはごめんなさいね」
「謝られた気がしない……」
「失礼ね、こんなにちゃんと謝ってるのに」
「……いいけどさ、別に。それこそお前にそんなの期待してない」
 でも、他でそんなこと言うなよ。寄せられた謝意は素直にそのまま受け取っとけ。
 おまけのようにそう言われて、柴崎は思わず小さく唇を尖らせた。手塚には見えないように。
 バカね、そんなの当たり前じゃない。
 あたしがこうやって遊ぶのは、笠原とあんただけよ。
 心の中でだけそう言って、柴崎も自分の酒に口をつける。まろやかな液体が心地よく喉を潤す。
 あたしが選んだ酒をおいしそうに飲んでるのが、ちょっとうれしかった、なんて、絶対に言ってやらない。
 お互いに黙ったまま、ちびちびと飲んでいたら、一杯空け終わるのがほぼ同時になった。そのタイミングを絶妙に見計らって、おかみが声をかけてくる。
「もひとつ、いかがですか?」
 ふんわりとやわらかい笑みで言われ、手塚と柴崎は顔を見合わせた。
 先に切り出したのは手塚だった。
「じゃあ、同じのをもう一杯」
「あたしも、今度はこっちと同じのを」
 同じのをおふたつですね、おおきに。またやわらかい笑みを返して、おかみがカウンターの奥の棚から一生瓶を取り出す。それを見ている柴崎を、手塚が意外そうな顔で見た。
「なによ」
 その視線に、柴崎が「何か文句でもあるの」と言わんばかりの目で睨み返す。
「いや……最初と同じの飲むのかと思ってたから。お前、好きなのをこだわって飲んでそうだし」
 そう言う手塚から、柴崎はぷい、と顔を背けた。
「別に。さっきのがちょっと甘めだったから、もう少しすっきりめのが飲みたくなっただけよ」
 言って、皿から胡瓜の浅漬けをつまむ。カリコリと噛んだ口の中にほのかに青さが広がる。
 すると、思いがけず、手塚が小さく笑った。
「なによ?」
 先程と同じ台詞を繰り返すと、手塚はその笑みを隠そうともせずにまっすぐ柴崎を見る。
「やっぱり、そういう飲み口のを選んでたんだな。俺、日本酒って、妙に酒くさいっつーか、もったりした印象があってちょっと苦手だったんだけど、これはすっきりしてて飲みやすかった。ありがとな」
 銘柄、覚えとく。
 手塚がそう言ったところで、おかみが新しいグラスを二組と一升瓶を持って来た。一杯目と同じく、グラスから桝へあふれるように日本酒を注いでいく。
 ほな、ごゆっくり。
 そう言っておかみが離れていってから、手塚は再び自分のグラスへ口を寄せた。うん、やっぱうまい。小さく、でも満足気な声が柴崎の耳に届く。
「飲まないのか?」
 そう手塚が声をかけてなお、柴崎は自分のグラスに口をつけなかった。


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