大人の科学 2

・・・・・from「ギモンケイの二人」

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「柴崎?」
「表面張力って」
「は?」
 いきなりそんな単語が飛び出すとは思わなかったろう、手塚の声はやや頓狂な色を帯びていた。
「表面張力って、結局なんなの?」
 そう言う柴崎の手付かずのグラスの縁には、その熟語が示す力によって、あふれる寸前の酒が踏み止まっていた。まるで、ぴんと張り詰めて今にも切れそうな糸のように。
「あー……液体が表面をできるだけ小さく保とうとする力、だったか。グラスの縁で酒の分子同士がスクラム組んでぎゅっと踏ん張ってる感じだな」
 手塚が頭の中から知識を引っ張り出して言うと、柴崎は自分で聞いておきながら「ふーん」と気のない相槌を打った。
「物知りね」
「おかげさまでね」
 いまだグラスに手を伸ばさない柴崎を横目に、手塚は自分の酒を飲む。ある程度飲んだところで、桝にあふれた酒をグラスに移した。
「……飲まないのかよ?」
 手塚が同じ問いを繰り返すが、やはり柴崎はグラスを見つめるばかりだった。そしてまた、手塚に問いを投げかけた。
「力が抜けたらあふれるのかしら」
 と、不意に、手塚がグラスの縁に盛り上がった酒をつつく。張り詰めた力の均衡を破られた酒が見る間に桝へあふれた。
「ちょっと! 何すんのよ! ガキかあんた!」
 あまりに予想外の手塚の行動に柴崎は思わず声をあげた。まったく、いきなり何をしでかすのよ。
 しかし、当の本人は至って涼しい顔でしゃあしゃあと言う。
「いや、どれだけつついたらあふれるのかなと」
「はぁ?」
「表面張力ってくらいだからな、表面がある限り力が抜けるってことは有り得ないだろ。そうやって縮こまってるところに別の力が加わって、表面が広がって、はみ出した部分の張力が重力に負けて、で、あふれる」
「……訳わかんない」
「そうだな、俺も適当言ってる」
 なんなの。こいつらしくもない。柴崎は珍しく自分が困惑している、と思った。こいつに困惑させられている、と。
「酔ってるの?」
「そうかも」
 ちょっと確かめてみたくなった。悪い。そう言って自分のグラスを傾けた。
 その横顔を、柴崎は呆れたように見つめた。
 何考えてんの、あんた。らしくないにも程があるわ。
 ああ、なんだかいらいらする。
 子犬ちゃんのくせに。あたしを戸惑わせるなんて。
 柴崎はもはやあふれる心配のないグラスを桝から取り出すと、ぐいっと一気に傾けた。そのまま半分ほどを飲み干す。
「おい、そんなに一気に飲むもんじゃ」
「うるさいわね、そういう気分のときもあるわよ」
 いきなり一気飲みをする柴崎に手塚が驚いて声をかけるが、柴崎は気にもかけず、桝にあふれた酒をグラスに移すとふたたびグラスに口をつける。そのままあおろうとしたら、腕ごと手塚に止められた。
「何すんのよ」
「それは俺の台詞だ。何してんだ、お前」
「見りゃわかるでしょ、お酒飲んでんのよ」
「なら、もっとうまそうに飲め。せっかくうまいのに、酒に失礼だ」
 はぁ? 今度はこいつが頓狂なことを言い出したものだ、と手塚を見返すと、言った本人は至極真面目な顔をしていた。
「そんなにおいしかったの?」
「ああ」
 だから、お前もちゃんと味わって飲め。
 そう言って、手塚は自分のグラスを柴崎のそれにカツン、と当てた。そして一口あおる。見るからにうまそうな顔で。
「……そんなに気に入ったんなら、よかったわ」
 自分も、今度は一口だけこくりと飲んで、ぽつりと、柴崎はつぶやいた。
 ああ、そうね。笠原がお土産のお菓子をそれはそれはおいしそうに食べるときも、あたし、そう言うわ。
 そうすると、笠原は、決まって言うの。

 ──おいしいから、柴崎も一緒に食べよう。

 あたしが買ってきたお土産なのにね。
 それから、それから。

「うまいだろ?」
 あたしが飲んだのを見て、手塚が聞いてくる。

 ──ね、おいしいでしょ?

 そう笠原も聞いてくる。そして言うのだ。

 ──おいしいもの、一人で食べるのもしあわせだけど、誰かといっしょに「おいしいね」って言いながら食べると、もっとおいしくなる気がしない?

「当然よ、あたしが選んだんだもの」
 手塚の問いかけにやっぱりいつもの調子で返すと、手塚も最初と同じく、いつものように肩をすくめてみせた。
 絶対に言わない。これが、一番好きで、いつも飲んでる銘柄だなんて。
 もう一度、グラスに口をつける。こくりと口に含んだその味は柴崎にとってはなじみのもので。
 だけど、いつもよりおいしい気がする、なんて、絶対に言ってやらない。

 二杯目のグラスも、二人、ほぼ同時に空いた。
 それを見たおかみに「今日はこの辺でしめられますか?」と聞かれ、二人はまた顔を見合わせた。
「はい、また来ます」
 言ったのは、手塚だった。
 何よ、勝手に決めて。柴崎は反射的にそう思ったが、ま、いいか、と思い直した。
 いい店だから、また来たいとは思ったし。
 せっかく品揃えの豊富な店だから、また別の好みのお酒をさがすのもいいわよね。
「おおきに、またどうぞ、おふたりで」
 会計を済ませた二人におかみが頭を下げる。言われて、手塚と柴崎は三たび顔を見合せてしまう。が、今度は柴崎が先に口を開いた。
「ええ、ぜひ」
 縄のれんをくぐると、酒の入った体には外気は少々冷たかったが、火照った頬に冷たい風が心地よい。ちょうどいいわ、と柴崎は思った。それを追うように出てきた手塚に振り向いた。
「だから、あんたならちょうどいいのよ。笠原なんか、こんな店、連れてこられないわ」
 言われた手塚は、なるほどな、と苦笑いした。あいつに日本酒を飲ませるなんて恐ろしいこと、天地がひっくりかえってもしたくない。そう言って、柴崎の隣を歩き始める。
 柴崎は、もう一度同じ台詞を心の中で繰り返した。

 そうよ、あんたなら、ちょうどいい。
 片方だけ先に潰れられちゃ、お話にならないのよ。

 触れ合う事のない距離を保って歩く二人を、早春の満月が照らしていた。


fin.


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