レインドロップ・ティアドロップ

・・・・・from「Librarhythm」

 ぱた。
 ぱた、ぱた。
 ぱたぱたぱた、ぱたたたたた……

 ふと見下ろした足元に小さな黒い染みができる。
 あ、と思ったときにはもう次の染みができていて、しかしそれに気付いたと同時にまた次の染みが、それから後はもう目で追うのは無理な程に加速度的なリズムを刻んで、黒い染みが次から次へと増えて足元を埋め尽くす。そしてあっという間に辺り一面が黒く染まり、やがてあちこちに波紋を描く。
 そんな雨の降り始めが堂上は苦手だ。
 なぜなら、そのリズムは彼女が泣き始めるときとまるで同じだから。
 公休日、日用品とビールやつまみの買い出しに来たスーパーの店先で、今朝のテレビニュースで気象予報士が告げた予報よりも随分早く降り出した雨が濡らす地面を見下ろし、堂上は「まいったな」と呟いた。

 こちらを真っ直ぐに見つめる瞳が不意に揺れ、あ、と思ったときにはその瞳いっぱいに涙が溢れる。それを零すまいと必死にこらえているのは見ている堂上にもわかるのだが、その努力が空しくなることも同時にわかっていて、だからせめてその行く末を見届けようとこちらも真っ直ぐに見つめていれば、果たしてまずは一粒、瞳からぽろりと落ちて、そうすれば後はあのリズムであとからあとから零れ落ちる。
 その涙を見せないようにと俯いて見せるけれども、悲しいかな、俯いた彼女の顔はちょうど堂上の目の前の高さで、そして堂上は思わず上がりかけた手をぎゅっと握ってこらえることになる。
 そう、その涙を拭ってやりたい、と全く思わない訳ではないのだ。別に泣いているのが郁だから、という訳ではなくとも、目の前で女の子がぽろぽろと泣いていれば「どうした、大丈夫か」と優しい言葉の一つもかけてやりたくなるのが人情というものだ。ましてや──いや、いや、誰であろうと、一般論として。
 そしてその場面に遭遇する機会が昨日もあった。
 昨日の訓練で、郁は実戦だったら命取りになりかねないミスを犯した。それゆえの堂上の叱責を郁も理解し、黙って受け入れた。しかし、その事実を咀嚼する過程で、悔しさに涙をにじませた。
 しかし堂上は、相手が郁だからこそ、それを拭ってやる訳にはいかない。
 郁が一人の図書隊員として自分の未熟さを悔いて流す涙。上官である堂上がするべきことはそれを拭うことではなく、彼女が自分の意志と力でその涙を踏み越えて再び立ち上がるのを見守ることだけだ。それが出来ないのなら郁はそれまでの器であり、この場所に相応しくない、というだけのこと。だから堂上は郁に手を差し延べて甘やかす気はないし、そして彼女も甘やかされることを望んでいないだろう。
 そうして、彼女の瞳からはあとからあとからぽろぽろと涙が零れ続ける。あのリズムの果てに降り続く雨のように。
 ……いっそこのまま泣き続けていてくれたら。
 何度そう思っただろうか。
 いっそこのまま泣き続けていてくれ、そうすれば俺は──

 見上げた空から降り続く雨はどうやら当分止みそうにない。天気予報を信じて折り畳み傘すら持って来なかったから、今の堂上に与えられた選択肢は、ビニール傘でも買うか、濡れネズミ覚悟で雨の中に飛び込むか、あるいはこの雨が止むまで待つか、の三つくらいだ。
 ここがもっと大きなショッピングモールか何かなら時間の潰しようもあるが、本屋も喫茶店もない、食料品と日用雑貨のみの純然たるスーパーマーケットではそれは無理難題に等しい。よって第三の選択肢は却下。あとは傘を買うか買わないかだが、いつでも処分できるからと思って買ったビニール傘ほどいつまでも部屋の傘立てででかい顔をするのを経験上知っているから、できればそれを買うのは見送りたい。
 となれば、後は濡れるの覚悟で雨の中を走るしかない。どうせ濡れネズミになったところであとは寮に帰るだけだし、春の冷たい雨に濡れても帰ってすぐに熱いシャワーを浴びれば風邪もひくまい。
「……行くか」
 誰にともなく小さく宣言し、着ていたパーカのフードをかぶろうとして軽く頭を下げた堂上の目線の先に、小さな子供がぽつんと立ち尽くしていることに気が付いた。見たところ、まだ一人でおつかい、という歳でもなさそうだが、保護者はどうしたのか。堂上は図書館内で保護者とはぐれたと思しき子供を見つけたときと同じように、まず辺りをぐるりと見回した。そうすれば大抵、意外とすぐそばに子供を捜してきょろきょろする保護者の姿が見つかるのだが、今回は残念ながら一回り視線を巡らせてもそれらしき人物は見当たらない。
 これは本格的に迷子か、と堂上は小さくため息をつくと、その子供の隣にしゃがみ込んで出来る限りやわらかい声で話しかけた。
「どうした、一人か? おうちの人は?」
 正直なところ、堂上は子供の相手がそう得意ではない。自分が成長するまでの過程で、野放図で女王様な妹の面倒を見るのでそっち方面のエネルギーは使い果たしてしまったのではないかと思っている。気が付いたら小さな子供の相手は微妙に苦手科目になっていた。しかし、そんなことを言っていたら自分の仕事に支障が出るのは確かなので、子供のあしらいの得意な同僚や先輩の姿を見ながらなんとか克服して今に至る。だから先だっての昇任試験での手塚の苦労は他人事の気がしなかったものだ。
 堂上の声に、それまで降りしきる雨を真っ直ぐ見据えていた子供が振り返った。幼稚園の年少くらいだろう小さな男の子の瞳は頼りなげに揺れていて、堂上は「あ」と思う。
 この瞳に、俺は、見覚えがある。
 一瞬どきりとした堂上の前で、男の子が震える声で答えた。
「ママと来たの。お買い物して、雨で、ママが車に置いてくるからここで待っててねって言ったの。だから待ってる」
 その説明はあれこれ言葉足らずではあったが、おそらく買い物を終えて駐車場へ戻ろうとしたところを雨に降られ、しかし母親一人では買い物の荷物と子供の両方を抱えて雨の中を走ることができなくて、とりあえず荷物だけを先に車に置いて来る間ここで待っていろと子供に言った、というところだろう。最近は幼児の連れ去りなど物騒な事件も少なくないのに無防備な、と、図書館警備の際の留意事項を思い出して堂上は思わず眉をひそめる。と、堂上のその気配に子供がびくりとした。
「ママ、戻ってくるよね?」
 その不安げな声に堂上ははっとする。アホか、子供を不安がらせてどうする俺。堂上は慌てて子供に向き直り、その頭の上で軽くぽんぽんと手のひらを弾ませた。
「ママは『待ってて』って言ったんだろう? だったらもうすぐ戻ってくるよ。いい子で待ってような」
 優しく話しかけた堂上の声にも、しかし子供は不安を拭えなかったのだろう。むしろ自分で口にしてしまったことでその不安が具体化され、最悪の事態を想像してしまったようだった。
 最悪の事態……母親が戻って来ない。
「ママ、戻ってくるよね?」
 同じ問いを、しかし問いだという自覚もないままに繰り返す子供の顔がくしゃりと歪み、堂上は再び「あ、」と思った。
 この次に起こることを、俺は知っている。
 息を呑んで子供の顔を見つめていると、大きく見開いた瞳から大粒の涙がひとつ、ぽろりと落ちた。続けてもうひとつ。そこからあとはもう、追うことも数えることもできないあの加速度的なリズムであとからあとから涙が零れ落ちる。
 それは、この雨の降り始めと同じリズム。
 そして、彼女の泣き始めとも。
 彼女と違うのは、涙とともにこらえることなく泣き声が漏れることだ。しゃっくりのような息の合間にひっくひっくと声が零れる。こうなるとそれを止める術などなく、堂上も「泣くな、大丈夫だからな」と頭をぽんぽんを叩いてやるくらいしかできることはない。
 まいったな、母親が早く戻ってくれればいいが。
 子供に気取られないようにこっそりとため息をついた堂上だったが、その息はしかし、子供が嗚咽の合間に呟いた一言にごくりと呑み込まれた。
「……おいてかないで」
 子供の頭の上に置いた堂上の手が強張る。
 俺はその言葉を知っている。
 俺が、言われた。
 彼女に、言わせた。
 言うつもりはなかったであろう言葉を──言う必要などなかったはずの言葉を。
 かつて自分が犯した過ちを思いがけず突き付けられて、堂上の脳裏にあのときの郁の涙が甦る。小田原攻防戦の編成からの除外という堂上の不公正な采配によって傷付いた郁が流した涙は、悔し涙以上に堂上が拭うことはできなかった。彼女を傷付けた堂上その人にそれが許されるはずもない。
 傷付けると知っていて、それで恨まれると覚悟して、それでも下したその決断はやっぱり誤りだったと、誰より自分自身が後悔した。
 だから、いつか耳元で切れ切れに囁かれた無意識のその言葉は容赦なく堂上の胸を刺した。
 そして、悟った。
「置いて行ったりなんかしない」
 子供の頭に載せた手を、堂上は再び弾ませた。
「大丈夫、必ず戻って来るから」
 いっそこのまま泣き続けていてくれたら。
 そうすれば俺は、「適性なし」と判断してすぐにでも郁をここから……この危険な場所から追い出せるのに。
 ぽろぽろと涙を流す郁を目の前にして何度となく繰り返したその願いを望まなくなったのは、一体いつの頃からか。
 堂上にどんなに厳しくしごかれ叩かれ、それでときには涙を流しても、必ずその涙を振り切り、自分の足で立ち上がり、再び走り出す彼女を見守るうちに、その密かな願いはいつしか「早く泣きやめ、そして立ち上がれ」にすり替わっていた。
 彼女がそうまでして追いかけているのは今はもういない「王子様」だと思っていたのに。
 それにも関わらず、あのとき堂上は彼女の無意識の願い事に返事をしそうになった。なんて思い上がりだ、と慌てて呑みこんだその言葉は図らずも、そして驚くことに的外れではなく、しかしそのまま自分だけが知る約束になった。
 お前が立ち上がり、また走り出すのなら。
 そうして「俺」を追いかけてきてくれると言うのなら。
 俺は絶対に、二度と、お前を置いて行ったりなどしない。
 だから、お前は、真っ直ぐに走れ。
 もしも涙を流すことがあれば、俺がきっとそばにいてやるから。……その涙を拭ってやることは、俺にはやっぱりできないけれども。
「けんちゃん、お待たせー!」
 屋外に背を向けてしゃがみ込んでいた堂上の背後から、慌てたような声とぱちゃぱちゃと水を跳ねさせる足音が駆け寄ってきた。
「ママ!」
 泣いたカラスがもう笑った、とはこういうことを言うんだな、と妙に納得してしまった程に、男の子はさんざん泣きじゃくっていたはずの顔をぱあっと輝かせて戻ってきた母親の元へ駆け寄った。
「ごめんね、待たせちゃって。あらあら泣いてたの? ママ、ちゃんと戻ってくるからねって言ったでしょ?」
「うん! あの人もだいじょうぶって言ってた!」
 傘をさした母親に飛びついた子供が振り返って堂上を指差す。子供のはしゃぎように呆気にとられてしゃがんだままだった堂上はそこでようやく立ち上がり、母親に軽く会釈した。
「お子さんが一人でいたので、親御さんとはぐれてしまったのかと。早く戻られてよかったです」
「まあ、まあ、すみません。けんちゃん、このお兄さんに遊んでもらってたの?」
「うん! 頭ポンってしてもらった!」
 笑顔満面で母親に報告する子供に、堂上は少し気恥ずかしくなる。そうか、俺はいつもあいつを随分と子供扱いしているようだ。しかしさっき子供にしたのと同じように頭に載せた手の下で照れくさそうに笑う彼女の顔も相当子供のようだから、多分、間違ってはいない、はずだ。
 それじゃあどうもー、なんて明るく挨拶して駐車場へ向かう親子の背を見送って、堂上はあらためて空を見上げた。
 雨はまだ当分止みそうにない。
 しかし、止まない雨もない。
 降り続く雨もいつかはあがり、雲が切れ、明るい太陽が顔を出すのだ。
「……行くか」
 再び、誰にともなく宣言して、堂上は今度こそフードをかぶって雨の中を走りだした。



fin.


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