手のひらの魔法 1

・・・・・from「強いお酒をちょうだい」

 誰か教えて。
 どうしたら、忘れられるの。

     *


「じゃあ、行ってくる」
「うん、ゆっくりしておいでね」
 朝の出勤ラッシュが終わった寮の玄関ロビーはがらんとして、入口のガラス窓から差し込む日差しのせいかやけに白っぽく見える。そして窓の向こう、太陽が容赦なく照らす屋外は既にじりじりと陽炎が立っており、朝からこれでは今日もまた暑い一日になりそうだった。
 その熱を帯びた空気の中へ出ていこうとしているのは柴崎。
 それを部屋着のまま見送るのは郁。
 今日から三日間、柴崎が法事のために帰省するところだった。
「旅行じゃないんだし、お土産不要だからね?」
「まーた心にもないことを。いつものきんつば、狙ってるくせに」
「う」
 図星を言い当てられて怯んだ郁を見上げ、「ま、余力があったらね。あんまり期待すんじゃないわよ」と言ってにやりと笑う柴崎だったが、実際には郁の分を含めあちこちに配る分をきっちり買ってくるのを郁は知っている。
 下駄箱に寮内用のサンダルを押し込んで部屋から持ってきた綺麗なミュールに履き換えると、柴崎は郁に向き直った。三和土とロビーの段差の分、ただでさえ離れている二人の視線は更に遠い。
 と、柴崎が普段よりだいぶ高いところにある郁の顔を見上げ、口を開いた。
「笠原、大丈夫ね?」
 不意に投げかけられた問いは、あまりにもいろいろなものが省略されていた。その代わり、まるでそれを補おうとするかのように、柴崎の瞳がまっすぐに郁を見つめる。それを受け止めた郁は、その明るい茶色の瞳をきょろりとさせ、ん? と首を傾げた。
「なにが?」
 その、いっそ子供のような、と言ってしまいたくなる無邪気な顔を、ほんのわずかの間だけ見つめ、柴崎は目を伏せた。
「……なんでもない。それじゃあね」
「ん、いってらっしゃい。気をつけてね」
 実家への帰省とはいえ、三日間の旅仕度としてはかなり小振りな荷物──いい女は荷物が少ないものよ、と本人が郁に言い放ったのは昨晩のことだ──を下げた柴崎が玄関から見えなくなるまで見送ると、郁はふう、とひとつ息を吐き出してから部屋へと戻った。
 これから三日間は久しぶりの一人暮らしだ。
 そして郁自身も、今日と明日、久しぶりに二日続きの公休である。

 ──今日しかない。

 数日前から決めていた予定を決行すべく、郁は部屋着を脱ぎ捨てた。


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