手のひらの魔法 3

・・・・・from「強いお酒をちょうだい」

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 仕方がなかった。
 そんな言葉で片付けるのは本当に納得がいかないし、許せない。
 それでもやはり、仕方がなかった、と、そう言うしかなかった。
 あたしがいながら、守ってやれなかった。でも、あたしじゃ守れなかったのも事実だ。
 大丈夫か、と問うた自分に『なにが?』といつもの明るい瞳で返した郁の顔を思い出し、小松へ向かう飛行機の中、柴崎はその美しい唇を噛んだ。

 それは、一週間あまり前のこと。
 図書隊の同期の女子の結婚式に参列した郁と柴崎、そしてもう一人の同期である阿部の三人は、式の行われた新宿のホテルからの帰り道、下りの中央線に乗っていた。平日に行われた式と披露宴、二次会まで駆け抜けると、帰りの電車はちょうど一般の会社員の残業や宴会帰りの帰宅ラッシュの時間と重なってしまい、車内は相当の混雑だった。
「うわあ、これ、乗れるの?」
 図書隊所属の寮住まいで、しかも主たる職場が隣接する第一図書館では、ラッシュの電車に乗る事などめったにない。郁は目を丸くして混雑する車内を見つめた。
「乗れるの、っていうか、乗らないと帰れないでしょ。ほら、頑張ってタックルするのよ。そういうのなら得意でしょあんた」
「タックルったって、相手ぶっ倒す訳にもいかないでしょーが」
「誰がぶっ倒せっつったよ! 自分が乗るスペースだけ確保すればいいの! ほら、押し込め押し込め」
「えええー」
 結婚式帰りのお約束の大きな引き出物入り紙袋に加え、二次会のビンゴで当てた大きなイルカの抱き枕を抱えた郁が、眉毛をハの字にしつつもなんとか車内に押し込んで行き、そうしてできた隙間に柴崎と阿部がするりと滑り込んだ。そこでドアが閉まり、かろうじて乗車成功である。
「はー……サラリーマンな人たちって毎日こんな電車に乗ってるんだね。大変だあ」
 三人くっついて乗っているとはいえ、この混雑ではお互いの顔を見るよう体の向きを変えることもままならない。無理矢理に背後の二人に首を向けた郁が情けなさそうな声をあげる。
「ま、しばらくすれば少しは空くわよ。我慢してなさい」
「ふええ」
 新宿を出て、大久保、東中野、中野……いくつか駅を過ぎ、そのたびに乗る客、降りる客があるから、ドアのすぐ側に立っていた三人はその都度降りたり乗ったり、他の客に押し込まれたり、を繰り返す内にいつの間にか車内のだいぶ中程まで入り込んでおり、そして三人バラバラになってしまった。背の低い柴崎からは、サラリーマンたちの肩の向こう、郁が抱きかかえたイルカの上に郁の顔がかろうじてのぞいて見えるという具合だ。視線を送ると、イルカの向こうから郁が苦笑を送り返してきた。阿部は柴崎ほどには離れておらず、郁のすぐ斜め後ろあたりだ。こちらも同じく苦笑を送ってくる。
 こればっかりは、もう少し空くまではどうしようもないわね。
 背の高いサラリーマンの背中に囲まれて息苦しく思いつつも、柴崎は電車の揺れにうまいこと身を任せていた。
 そして、さらに何駅かすぎた頃。
 突然、イルカの向こうの郁が目を見開いた。それを見た柴崎の背中をピシリと緊張が走る。
 まさか。
 郁が狭い空間の中でわずかに身じろぎするが、この混雑では体の向きを変えられる程には動けない。徐々に、郁の顔がイルカに埋もれて行く。
 よりによって、あたしの目の見えるところで、なのに手の届かないところで。
 柴崎は腹の底からこみあげる何かを押さえつけて、小さく「笠原」と呼んだ。走る電車の轟音にかき消されそうな声量ではあったが、よく知る人の声というのは無意識によく拾うものだ。郁もぴくりと反応し、イルカからほんの少しだけ顔をあげて柴崎の方を見る。その顔は真っ赤で、唇をぎゅっと噛み締めていた。
 ……ちくしょう。
 舌打ちしたくなるのを抑えて、口の動きだけで「いいわね?」と郁に呼びかける。それに、郁の方も小さく頷くだけで返す。
「阿部」
 今度は比較的大きな声で、もう一人の同期の名前を呼ぶ。と、ほとんど間を空けず、「あだだだっ!」と男の声があがった。
「痴漢行為の現行犯で逮捕します。……この、腐れ野郎が」
 郁の斜め後ろにいた阿部が、狭い空間を縫って男の手首をひねり上げていた。阿部は郁の斜め後ろにいたから郁の顔は見えていなかったが、柴崎と阿部は人混み越しになんとか顔を見合わす事ができていた。それで、柴崎が郁の確認をとった上でアクションを起こしたのである。阿部は業務部だが、学生時代から合気道をやっているとかで、素人相手なら敵ではない。その毅然とした声に、混雑しているながらも周囲の乗客たちが「俺は関係ない」とでも言うように一斉に身を引いたので、郁と阿部の周りにはほんのわずかながら空間ができた。その隙間に阿部は男の手を掴んだのと逆の方の手を素早く滑り込ませ、郁のめくりあげられたワンピースの裾を下ろした。

 次の駅で駅員に男を引き渡し、そのまま事情聴取、調書の記入まで済ませると、さすがにかなり遅い時間になってしまった。とはいえすぐに電車に乗ればぎりぎり間に合わなくもなかったのだが、柴崎は寮へ電話を入れ、三人分の外泊届けを滑り込ませた。もちろん本当に外泊する訳ではない。ここからタクシーで帰ると門限に間に合わないからだ。
「ごめん……余計にお金かかっちゃうね」
 タクシーの中で郁がぽつりと言う。
「バカねえ、何言ってんの。たまにはこんな楽をするのもいいじゃない?」
 実際、再び満員電車に乗る事を考えたら、タクシーでの帰宅は極楽だ。しかし、そんな目先のこと以上に、今の郁を満員電車に乗せるのは酷だ、という判断が柴崎と阿部にタクシーを選ばせていた。いくら世間一般の女子より気丈でパワフルとはいえ、郁だってただの若い女性である。どれほどのショックを受けたのかと思うと、柴崎はあの男の手を愛用のシャープペンシルで刺してやらなかった自分をほめてやりたいくらいだ。
 そりゃあ郁だって今まで痴漢の被害にあったことは何度かあっただろうし、今年の初めには図書館での痴漢の捕り物で柴崎とともに餌となり、そして実際に釣ったのは郁の方だった。だからと言ってあんなもの、郁でなくとも、柴崎だって、何度あっても慣れるものではない。慣れてはいけない。繰り返せば、耐えられるようには、なってしまうけれど。しかしその度ごとに、心にざっくりと傷を負う。触られて終わり、ではないのだ。減るもんじゃなし、などとほざく男どもはすべてぶち殺してやりたい。女たちがみなそう思っていることを、男たちはきっとわかっていない。
「こんなモノ持ってなければ、あたしだって自分の手で振り払えたのに」
 郁は膝の上においたイルカに目を落とす。それを、今はもう抱きかかえてはいなかった。
「置いて帰ってくる訳にはいかなかったんだもの、しょうがないでしょうよ」
 郁を挟んで柴崎の反対側に座る阿部が言う。確かに、片手でも自由になっていれば、逮捕はできなくとも後ろ手に男の手を払ってそれ以上手出しをさせないことはできたかもしれない、そう思う郁の気持ちもわかるのだが。
「それに、あの混雑じゃあねえ、手が空いてたとしたってそうそう動けなかったわよ」
 ため息まじりにそう言う阿部に、「それは……そうなんだけどさ」と郁が続ける。
「やっぱり、ワンピースなんて柄じゃないもの着てるからだよねえ。普段だったらあんなヤツ、あたしなんか見向きもしないのにさっ」
 慣れないモノ着るもんじゃないってことだよねえ、なんて、あははと笑いさえしながら言う、その郁の頭を柴崎は軽くはたく。
「ちょっと、それ、あたしの見立てのせいだって言うの? こーんなに可愛くしてあげたのに文句言うんじゃないわよ。それに、ワンピだったら手を出していいとか言うんなら、電車の中なんてオトコ全員犯罪者よ。自分のせいとか言ったらぶん殴るわよ」
「いったいなあ! もう叩いてんじゃん!」
「あんたがバカなこと言うからよ」
「……ごめん……」
「あんた、ほんとバカ」
 ワンピースと揃いの薄いストール一枚の郁の肩を柴崎は隣からそっと抱きしめる。自分よりだいぶ高い肩に、自分の頭を押し付けて。
 柴崎が今日のために見立ててやったオレンジ色のキャミソールワンピは、かわいすぎずスレンダーすぎず、我ながら郁によく似合っていたと思う。本人は「腕出過ぎ! 足も出過ぎ!」とぎゃーぎゃー騒いでいたが、決していやらしくなんか見えなかった。郁の健康的な明るさをそのまま映したようなその姿は十分に魅力的だった。
 だからと言って、こんな目にあっていい訳ではない。
 あんたがかわいく、きれいになるのは、決して悪いことじゃない。
「ありがとね、柴崎、阿部。二人がいてくれてよかった」
 それだけ言って、郁はようやく、涙を流した。

 その翌日、柴崎は堂上を朝一番に会議室に呼び出した。
 柴崎はあくまで業務報告として前日の事件を伝えた。もちろん郁には了解はとっている。報告するのは、郁の精神的な状況によっては業務や戦闘に影響が出る可能性があるからだ。一瞬の判断の遅れやミスが命取りにならないとも限らない、そんな職種についている以上、報告しないという選択肢はありえなかった。
「わかった」
 堂上は静かにその報告を受けた。その手がぎゅっと握り締められたままであったのを、柴崎は黙って見ていた。
「隊長、副隊長と班には俺から報告をする。だが……」
「それ以外に広めるなんてバカなことしませんよ。あたしを誰だと思ってるんですか」
「……ああ、そうだな。悪かった」
 堂上は苦笑して軽く手を挙げた。しかし当然、目はまったく笑っておらず。
「笠原を、よろしくお願いします」
 柴崎は目の前の小柄な上官に思いを込めて頭を下げた。
「こちらこそだ。こういうのは、女同士でないとフォローできない事の方が多いだろうからな」
 そう言った堂上の声に苛立ちが混じっている事をわざわざ指摘することは、今の柴崎はしなかった。

 もしもあのとき、この人が一緒にいたなら。
 きっと、あの子を守れたのに。


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