手のひらの魔法 4

・・・・・from「強いお酒をちょうだい」

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「具合はどうだ?」
「はあ……大丈夫です。すみません」
 酒屋から少し歩いたところにあった公園のベンチで、郁は堂上と並んで座っていた。手にはミネラルウォーターのボトルと、公園の水場でぬらしたタオルハンカチ。固く絞ったそれがほてった頬に気持ちよかった。
「臭いだけでそんなになるくせに、どうしてそれを飲もうって気になるんだ」
 呆れたような声で堂上が言う。悔しいけれど、言い返せない。まったくもってその通りだ。
 だけど……そうなんだけど。
 郁は堂上と顔を合わせたくなくて、ハンカチで目を覆った。

 ボトルが割れた音に、店員はすぐさま飛んできて片付けを始めた。落としたボトルは派手に割れたものの郁にも堂上にも怪我はなく、飛び散ったリキュールで服の裾に少しシミができただけだった。しかし、郁は床に広がったリキュールから立ち上る濃い酒の臭いだけで気分が悪くなってしまい、その場に座り込んでしまったのだ。
 客である自分たちの落ち度で割ってしまった物だから、割れたリキュールの代金は元々それを買うはずだった郁が払うべきだったのだが、郁の様子を見た堂上が自分の買い物と一緒にリキュール代も支払ってくれた。そして公園で、これまた堂上が買ってくれたミネラルウォーターを飲みつつ、回復するのを待っていたところだ。
 ああ、もう、こんなところでまで何もかも教官に世話かけっぱなしで。
 そうならないようにするために、ここに来たはずだったのに。
 情けなくて、恥ずかしくて……ああ、まずい、こんなところで泣く訳にはいかないのに。
 だのに、冷たかったはずのタオルハンカチは、少しずつ温かい水でやわらかくなっていく。

 やけ酒、とは違うと思う。
 ただ、忘れたかった。
 自分の肌の上を見知らぬ他人の手が無遠慮に這い回る感触を。
 身動き一つとれず、されるがままになるしかなかった悔しさを。
 そして、その記憶に振り回される自分の弱さを。
 なにもかも、忘れてしまいたかった。
 強いお酒を浴びるように飲んで、記憶がなくなるまで飲んで、そうしたら忘れられるのではないかと……忘れたいと、すがるような気持ちで思った。

 あの翌日、午後に予定されていた乱取りの稽古が堂上班だけ室内訓練に変更された。
 ついこないだ、図書館内に乱入した酔っぱらいを取り押さえようと向かったら、バディの堂上に「お前はここで待機してろ」と押さえられた。
 きっとどれも、あたしを気遣っての事。あたしが、あんな記憶に負けそうだから。もう過ぎたことなのに。終わった事で、忘れてしまえばいいことなのに。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 あたしの弱さがあたしの思いの邪魔をする。みんなに、教官に、いらない気を遣わせる。
 あたしは、みんなと同じ場所で……あんたの背中を追って、一緒に……一緒にいたいのに。

 悔しい────────

「お前、今晩暇か」
 唐突に問われて、郁は思わず「はい?」と目を真っ赤にしたまま顔をあげてしまった。堂上はそれを見ないようにするためか、郁の方へ視線を向けはしなかった。向こうのグラウンドでこの暑いさなかに少年野球の子供たちが走っているのを見ている。
「暇って、あの」
「飲みに行く。お前も来い。……飲みたいんだろ?」
「え……えーと、あの?」
 いきなりのお誘いに郁は目をぱちくりさせる。そりゃ確かに、強い酒を飲んでぐでんぐでんになりたい、と思っているのは確かだが、なんでこの人と。……よりによって、この人と。
 ぽかん、としている郁に堂上が渋々という体で向き直り、呆れたように言う。
「臭いだけで酔っぱらうような奴を一人で飲ませておけるか、恐ろしい」
「おそろしい、って! そこまで言う?」
「今のお前にそれに関して言い返す権利があると思うか」
「う、ううー」
 でも、でもだって、あたしが酔っぱらいたいのはあたしの事情で、それに教官がつきあう義理も義務も当然のことながらどこにもなくて……
 俯いてしまった郁の頭に、ぽん、と堂上の手が乗った。そして、言いにくそうに、ぽつりと言った。
「酔いつぶれて、いろいろ吹っ切っちまいたいってときは、誰にでもある。だから、お前がそうだとしても、別に驚きやしない」
 その言葉に、郁は自分の思惑がすべて筒抜けなのを知る。
 それと同時に、忘れたいことが鮮明に思い出されて、どうしようもなく体が強張るのが自分でもよくわかった。あの、怖気の走る感触が肌の上に甦り、郁は膝の上の手をぎゅっと握りしめる。忘れたい……忘れなきゃいけないのに。でなきゃあたしは、置いて行かれてしまうのに。
 そのとき、頭の上に乗せられた手が再びぽん、と頭の上を跳ねた……と思ったら、続けてゆっくりと撫でられた。髪の毛の流れに沿って、そっと、優しく。子供をあやすように。
 その手の動きは止めないまま、堂上が再び口を開いた。
「でもな、確かに……俺たちじゃどうしようもない問題もあるのもわかってる、わかってるが……頼むから、一人でつぶれてくれるな。お前は一人じゃないんだから」
 お前が弱い訳でも、悪い訳でもない。だから、不必要に自分を痛めつけるな。
 言いながら、堂上の手はゆっくりと、しかし休む事なく郁の頭を撫で続ける。
 ……ああ、あたし、あやされてるのか。まるで泣き出したちっちゃな子に「よしよし」とするように。
 普段だったら「子供扱いすんな!」と頬を膨らませてしまうような状況だと郁は思う。しかし、今は怒鳴り返す気にはならなかった。それどころか、いつまでもこうして撫でていてくれたらいいのに、とさえ思ってしまう。
 同じ男の人の手なのに、なぜこんなにも違う。
 どうしてこの人の手は、こんなにもあたたかで、優しくて……涙が出る。
 最初は不甲斐ない自分が悔しくて情けなくて苦い涙がじわじわ湧くばかりだったはずなのに、いつしか郁は自分でもびっくりするような嗚咽を漏らしていた。タオルハンカチをくしゃくしゃに握りしめ、小さな子供のようにしゃくりあげる。
 そこまで泣けて、郁はようやく気が付いた。
 ああ、そうか……あたしは、酔いつぶれたかったんじゃない。
 泣いてしまいたかったんだ。素直に本当の気持ちを吐き出してしまいたかったのだ。
 嫌だったのだと。悔しかったのだと。悲しかったのだと。
 ……子供のように声を上げてただひたすらに泣きじゃくってしまう程に、嫌だったのだと。
 あのぞっとするような手の感触は、きっと酔いつぶれたところで完全に忘れる事なんかできないだろう。そして、それは自分が悪いからでも、弱いからでもないのだということも……もしも友達が同じ経験をしてしまったらきっと自分もそう言うだろうと思うから……そんなこと、本当は最初からわかっていた。
 それならばせめて、なかったことにしてしまいたかった。だから何事もないような顔をしなければならなかった。泣く訳にはいかなかった。だってそうしなければ自分はここにはいられないのだ。
 それなのに、堂上の手のひらが何よりも雄弁に郁に伝えるのだ。
 あのことを忘れる事はできなくても。
 その記憶が体を強張らせることがあっても。
 そして、泣くほど嫌だったのだと子供のように吐き出しても。
 この優しくてあたたかい手はきっといつだってすぐそばにある……郁を一人にはしない。
 だから、泣いてもいいのだと。
 堂上がそんなことを本当に思っているのかなんて郁にわかるはずもない。しかし、郁は確かにそう感じ、それを素直に信じた。だから、いつまでも涙が止まらない。いろいろなものがこみ上げて息が苦しい。
 その息が落ち着くまでずっと、優しい手のひらは郁の髪の毛をそっと撫で続けていた。


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