発火ダッシュ 1

・・・・・from「日本の夏が来た。」

 あと五十メートル。
 歩いても走ってもその距離は変わらないが、走ればその分、ゴールまでの時間は短縮される。
 とはいえ、きっと走った方が余計に汗かくんだよな……でも歩いたって余計に時間かかる分、結局同じだけ汗かきそうだよねえ……
 だったらやっぱり走っちゃえ!
 そんな、最近の毎朝恒例の自分内会議をぱたりと畳むと、郁はあと四十メートル余りになった特殊部隊庁舎までの残りの道のりを一気にダッシュした。
 郁の足だからほんの五、六秒で駆け抜けてたどり着いた庁舎には一年三百六十五日二十四時間体制の特殊部隊が詰めている。つまり常に人の絶えることがない場所だから、エコと経費削減の名の下に一般利用者のいる図書館に比べたら設定温度は大分高めにされてはいるものの、入れずにいることは今時の真夏の東京では殺人行為とさえ言える冷房が常に入っている。その入り口の自動ドアをいつぞやのようにぶち破りかねない勢いで飛び込んで「あー、クーラー最高!」と小さく叫ぶのが最近の郁の朝の日課……のはず、なのだが。
「……あっつぅ!」
 どうしたことか珍しく開けっ放しだった庁舎の自動ドアを走り抜けた途端、いっそ「もわもわっ」という擬音さえ伴って、屋外に負けず劣らずの生暖かい空気が郁の体にまとわりついた。
「何これー!?」
 今日に限って走ったのは失敗だったかな、と思う間もなく、郁の額から背中から汗がどどっと噴き出した。

 こんなときばかりはすっぴんで助かった、と思いながらミニタオルで汗を拭き拭き事務室に入ると、ここも珍しく全ての窓が全開になっていた。しかし今日は朝から風がほとんど吹いておらず、おかげで事務室の中も庁舎のエントランスに負けず劣らずぬるい空気が篭っている。
「おはようございます。……どうしたんですか、コレ」
 郁はデスクにバッグを置きながら指で天井を指差す。と言ってもその指が沈黙している空調を指しているのかこのぬるい空気を指しているのか、郁自身にもよくわかっていない。
「おはよう、笠原さん。昨夜からね、空調がイカレちゃったんだって」
 どこから発掘したのか大分くたびれた団扇で顔をぱたぱた扇ぎながら小牧が言った。その額にも、たった今走って来たばかりの郁ほどではないにしろ、じわりと汗がにじんでいる。いつも通り先に席についていた手塚も自分の手で申し訳程度に顔を扇いではいるが、やはり同様に額から汗が流れているし……そして当然のことながら、堂上も。郁の方をちらりと見て「おはよう」と一言だけ返したその手には始業時間前にも関わらず既に書類があるが、もう片方の手の指先で首元でネクタイを見苦しくない程度に緩めていた。その首筋にも汗が一筋流れ──って何見てんだあたしは!
 訳のわからない動揺を吹き飛ばすように、郁も両手の手の平を自分に向けてこれでもかという勢いでぱたぱた扇ぐ。
「この庁舎だけ? 機械の不調ですか?」
 手をぱたぱたさせながら尋ねた郁に今度は堂上が反応した。さすがの堂上もこの蒸し暑さでは集中を欠くのか、小さく息をついて目を落としていた書類を置くと郁の方を見上げた。その視線から、思わず郁は何気ない振りで目をそらしてしまう。──いや、いや、別に深い意味はないんだけど!
 その郁の挙動不審に気付いていないのか、気付いて無視したのか、とにかく何事もなかったように堂上が言った。
「らしいな。図書館と違ってこっちの建物のメンテナンスは何かと後回しにされがちだから、いい加減ガタがきたのかもしれん。その上、不調が発覚したのが夜中だったからどうにもならなかったんだろう」
 夜は日差しがない分、昼間よりは多少はマシなはず……とはいえ、しかし昨夜はこれで三日連続の熱帯夜だったと今朝の天気予報で言っていたし、挙句今日も朝から気温がウナギ登りだ。夜勤の隊員達はさぞ息苦しかったに違いない、と郁は「ひえ〜」と肩を縮めた。
「でも、朝一で業者に連絡したからじきに復旧すると思うよ」
 今度は堂上の方に団扇を向けて扇ぐ小牧の言葉に、郁はほっと胸を撫で下ろした。
「よかったー。一日中このむわっとした空気の中にいたら倒れそうですもんね!」
 それに、堂上班の今日の予定は午前中こそ空調の効いた図書館での書庫業務だが、午後一からは事務室詰め、夕方から格技場での体術訓練となっている。だから昼までには直ってるといいなー、なんて虫のいいことを考えていたら、不意に背後に異様な気配──いや、熱気?──が近付いて来た。
「かーさーはーらー、お前、今、自分が戻るまでに直ればいいとか思っただろー」
「俺達の熱帯夜の苦しみをどうしてくれるー」
「うひゃあっ!」
 背後から近付いた熱源……夜勤明けの先輩隊員たちの怨み声にぎょっとして振り返ろうとした郁の首筋に、いきなり冷たいものが押し当てられて、郁は色気も何もない声をあげて飛び上がった。
「なっなんなんですかっ!」
 慌てて首筋に手を伸ばしてみれば、そこには柔らかな手触りの平ぺったいもの……風邪で熱を出した時によくお世話になる、額に貼るタイプの冷却シートが貼られていた。郁はぺりりと剥がしたそれを片手に、もう片方の手でいきなり冷えた首筋をさすりながらあらためて先輩達を振り返った。
「もう! いきなり何すんですか! つーかこれ、どうしたんですか?」
「夜中にあんまり暑くて堪えられなくってな、医務室から失敬してきた。それが貴重な最後の一枚だぞー、ありがたく思えよー」
 そう言われてあらためて先輩たちを見れば、確かにその首筋に同じ冷却シートが貼られてはいるが、それは傍から見ても既にその役目を果たしてへにょへにょになっていた。その、天寿を全うしたへにょへにょ冷却シートをそれぞれ無造作に剥がしてゴミ箱に投げ入れると、彼らは疲れ果てたような顔で「そんじゃなー、後よろしくー」と手を挙げて事務室を出て行った。一晩蒸し暑さに苦しんだ分、寮に戻って風呂で汗を流して、クーラーをガンガンにきかせた部屋で気持ちよく眠ることだろう。そのよれた背中に「お疲れさまでした!」と声をかけてから、郁はあらためて手にした冷却シートを見下ろした。
「どーしよ、これ」
 一度封を開けて保護フィルムも剥がして、あげく郁の首に一度貼ってしまったそのシートを元に戻す訳にはいかず、かといって開けたばかりのそれを捨てるのも忍びない。とはいえまた貼るのもなあ……と途方に暮れていたら、思いがけず堂上から「いいから貼っとけ」と指示された。 「建物の中にいても、この暑さだ、熱中症になる恐れはあるからな。せっかくだ、予防のつもりで貼っておけ」
「え、でも、それならあたしだけって訳には」
 いかないじゃないですか、と言いかけた郁の言葉を遮って、今度は小牧が堂上の言葉を後押しした。
「いいんだよ、笠原さん。一枚だけ医務室に返したってしょうがないんだし。それに、こういうときのための医務室の常備品なんだから。医務の方でちゃんと補充してくれるよ」
 笑いながら言う小牧の言葉に、郁もそう言われてみれば確かにそうか、とも思う。先輩たちだって単に暑いからというわがままで持ち出した訳ではなく、それこそ熱中症の予防のために必要な措置だったのだろう。
 それでも……いや、それならなおさら自分だけもらってしまってよかったのか、という気持ちが郁の中でむくむくと頭をもたげてくる。
 と、
「いいから貼っておけと言ってるだろうが」
 言うなり立ち上がった堂上が郁の手の冷却シートを取り上げ、郁の肩を掴んで体をぐりっと回転させて背中を向けさせると、郁の首筋にそれをぺたりと貼りつけた。
「ひゃぁあっ!」
 いきなり冷たいものを押し当てられて……っていうか! いきなり人の肩掴んだりとかしないでくださいよ! あげく人のく……っ、首筋に触らないでくださいよっ!
 いろいろと動揺して跳ね上がった郁の背後から堂上の不機嫌そうな声が突き刺さる。
「何マヌケな声出してんだアホウ! 自分でさっさと貼らんからだ!」
 ぼさっと突っ立ってないで早く来い! ブリーフィング始めるぞ! そう言って堂上は事務室隅の打ち合わせコーナーにさっさと歩いて行ってしまった。その後ろ姿をぽかんと見送る郁に、小牧のくすくす笑いが聞こえて、郁はそちらを怪訝な顔で振り返った。
「先輩たちもだけどさ、心配してるんだよ、堂上も。笠原さんは悔しく思うかもしれないけど、やっぱりこの中で一番スタミナないのは笠原さんなのは事実だし。だから隊のためでもあると思って素直に貼られておいてね」
 小牧の言うことはもっともで、郁はあらぬ方向で──ってどっちだ!──変に動揺した自分が恥ずかしくなる。
 仕事だ、仕事! 暑くてもなんでもしっかり仕事できるように、自分のコンディションを整えるのも仕事!
 うなじに貼られた冷却シートに一度だけそっと指を伸ばして、それから郁もブリーフィングのために打ち合わせコーナーに向かった。


>> 2


: love.love.library off→on stack room : TOP :


love.love.library/camoko 2008-2014