発火ダッシュ 2

・・・・・from「日本の夏が来た。」

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 午前中の図書館書庫業務を大きな問題もなく終えて特殊部隊庁舎に戻った堂上班を迎えたのは、またしても「もわもわっ」と重く暑苦しい空気だった。
「え、まだ直ってないの?」
 庁舎に入るなり思わず声に出してしまった郁の頭が後ろからはたかれる。
「たっ!」
「アホウ。やっぱりお前、自分が戻るまでに直ってれば、とか思ってただろう」
 堂上に図星を刺され、郁はぐうっと詰まった。でも堂上教官だって、正直なとこ、暑いよりは直って涼しく過ごせる方がいいと思ってたんじゃないですか? なんて絶対に言えない口応えを呑みこんで事務室に向かい、ドアを開けた──と。
「うわっ! あつっ!」
 郁たちを出迎えたのは、それまでとは比べ物にならない熱気と湿気の籠った空気だった。さすがの堂上や小牧、手塚でさえ「なんだこれは?」と顔をしかめるその重たい空気に、一体何が、と問う前に事務室のあちこちから悲鳴が上がった。
「やっぱだめだ! 窓開けようぜ!」
「息苦しくて死んじまう!」
 と同時に、なんとそれまで閉め切られていた窓が一気に開け放たれた。屋外は相変わらずあまり風がないのだが、それでも新鮮な外気が多少なりとも流れ込んで、それだけで室内の温度が数度下がったような気がした。
「はあぁー、やっぱ我慢するしかないかあ」
「熱さと湿気で窒息するよりはマシだよなあ」
 窓際で、まるで酸素不足の金魚のように深呼吸を繰り返す隊員たちに、郁は思わず素で突っ込んでしまった。
「なんでまだ空調直ってないのに窓閉めちゃってたんですか! それこそ熱中症になりますよ!」
 郁の首筋の冷却シートは確か八時間冷却が売りだったはずなのに、午前の仕事を終えた時点で既に力尽きてしまったので図書館を出る前にゴミ箱に捨ててきた。確かに書庫の中で走り回っていたとはいえ、空調が効いている図書館内にいてさえその状態だったのに、空調の故障した特殊部隊庁舎で、しかも気温がますます上がるこの時間帯に窓を閉め切るなんて正気の沙汰ではない。
「ああ、ちょうどいい。笠原、手塚、ちょっと来い」
 瀕死の金魚状態の隊員たちをよそにいつもの通り自分のデスクについていた緒形が郁と手塚を手招きした。副隊長がこの二人を呼ぶことはそうめったにあることではないので、郁と手塚はお互いに頭の上にはてなマークを飛ばしながら顔を見合わせ、それから緒形のデスクに向かった。そんな二人に緒形が「手ぇ出せ」と促すので、手塚が相変わらず不思議そうな顔をしながら右手を伸ばすと、その手のひらに五千円札が一枚乗せられた。
「お前たち、後で買い物行って来い。飯済ませてからでいいから」
「買い物? ああ、暑いからみんなの分アイスとか飲み物とか?」
「バカかお前、それ自分が欲しいだけだろう。そういうのは自分で買えよ」
 この状況で買い物と言われたらそれしか思いつかなくて素直にそう言ってしまった郁に手塚の容赦ない突っ込みが入る。「わかってるわよ! あとで自分で買おうと思ってたもん!」と気まずさをごまかすために大声をあげた郁に緒形の苦笑がかぶった。
「この暑さでみんなくさってるし、余った金で暑気払いに買って来てもらって構わんけどな。……それで蚊取線香買ってこい。たぶん駅前のスーパーなら売ってるだろう」
「蚊取線香?」
 そう復唱する声が郁と手塚の二人分見事にかぶった。それで再び顔を見合わせてから、先に口を開いたのは郁の方だった。
「ああ、それで窓」
 図書基地の中は美観のため、というよりはむしろ抗争時の目隠しの意味で樹木が多く植えられている。あまり戦闘範囲に入ることのない庁舎でもそれは同じで、窓の外には濃い緑色がようやく吹き始めたかすかな風に揺れている。そして緑が多いということは、それを棲みかとして虫も増える。普段は空調のおかげでほとんど窓を開けることもないからそれらの虫が事務室に入ってくることなどないが、今日のように全開になっていると虫の方も遠慮なく訪問してくるのだろう。特に蚊にとっては、必ず誰かしらが在席している事務室はまたとないエサの宝庫なのに違いない。
「奥多摩に持っていく用の蚊取線香が余ってませんでしたか?」
 手塚が言うのは、奥多摩で行われる野営訓練には必携の荷物のストックだ。確かに倉庫に箱詰めされていたはず、と郁も思い出すが、
「今行ってる班がほとんど持って行っちまっててな。残ってた分も夜勤の連中が昨晩のうちに使い切ってなくなってしまったんだ」
 苦笑しながら言う緒形の言葉に、そういえば去年の今頃は自分も新入隊員として奥多摩でひーひー言っていたものだ、と郁は顔を微妙に苦くした。それに野営と言えば痛恨のクマドッキリ。思わず横目で堂上を見てしまった郁だったが、堂上の方はそれをわかっていてかどうなのか、郁の方を見向きもしない。
「そんな訳で、よろしく頼むな」
 威勢のいいのが売りの特殊部隊には珍しく穏やかな口調で指示を出した副隊長に、郁と手塚は「了解しました!」と敬礼した。

 食堂で手早く昼食を済ませてから、郁と手塚は駅前のスーパーにやってきた。目指すは日用品コーナー……だが、除虫剤売り場の手前のシャンプー売り場で「あ、そういやそろそろ買い足さなくちゃ」なんて足を止めた郁の先で、手塚が「これでいいんじゃないか」と商品を手に声をかけてきた。それで慌ててそちらに駆け寄ると、手塚が手にしていたのは蚊取線香ではなく、カートリッジタイプの電気蚊取だった。
「これ二つもあれば事務室でも全体カバーできるだろ。それにひと夏もつし」
 そう言いながら同じ商品をもう一つ取ろうとした手塚の手を郁が止めた。
「それじゃだめだよ、やっぱり蚊取線香じゃないと」
「なんでだよ」
 訳がわからない、と不満げな手塚に、郁はちちち、と指を振って見せた。
「だって、蚊取が必要なのは空調が直るまででしょ。どんなに長くたって夕方までのことだろうし、それだったら蚊取線香で十分よ。ひと夏もたせる必要ないじゃない。それに、線香なら安くていっぱい入ってるから庁舎の他の部署にも配れるし。どの部屋だって同じ苦労してるんだろうしさ、困った時は助け合いよ。それでも余ったら奥多摩に持っていけるじゃない」
 一時しのぎなら後に残らないもののがいいでしょ、奥多摩にコンセントの必要な蚊取なんか持っていっても意味がないし、と言って自分は蚊取線香の箱を取り上げた郁に、手塚がきょとんとした顔をした。
「蚊取線香って、屋内で使っていいのか?」
「はァ!?」
 郁の方こそ訳がわからない、という顔で手塚を見返してしまった。
「何言ってんの、もともと蚊取っつったらコレでしょうが。確かに今は使ってるおうち少ないかもしれないけど、昔はどの家だって蚊取線香だったんだし、うちの実家はずっとこれだったわよ。窓開けて、そのそばに蚊取線香置いとけば十分だったもの」
 だから子供の頃は、友達の家の液体式やカートリッジ式の電気蚊取がうらやましかったものだ。どうしてうちはいつまでも線香なの、古臭い、と文句を言う郁に、「線香のがずっと安いし、効果は変わらないからこれで十分よ」とあっさり返した郁の母はやはり主婦の鑑だった……というよりは、単に父の克弘があまりクーラーが好きではなかったために、夏でも窓を開けて風を入れるだけで済ませていたことが大きいのだろう。
 窓を閉め切ってクーラーをかけているような部屋で蚊取線香をたいては煙が充満するし、換気がない分かえって危険を伴う。だから暑いときにはまずクーラー、という生活様式が主流の現在、電気蚊取しか使わない家が多いのも当然だと思うし、そういう家に住んでいたのであろう手塚の疑問もわからなくはない。ただ、郁自身も大きくなって自室にクーラーを入れてもらってからは電気蚊取を使っていたが、居間に降りて蚊取線香のにおいがするとなんだか懐かしいようなほっとした気持ちになったものだった。
「今日は窓開けっぱなしだから、線香で問題ないわよ。効率よくお買いものしましょ」
「お前に効率とか言われるとは思わなかった」
 微妙に納得しきれないような顔をしつつも手にした電気蚊取を元の位置に戻した手塚に、「なんだと!」と噛みついてから自分が持っていた蚊取線香の箱を押し付けた郁は、日用品コーナーを離れて隣の食品売り場へ歩き始めた。
「おい、もう会計すんだろ」
「アイス買ってこ! 副隊長もみんなの分買っていいって言ってたし!」
 言いながらアイス売り場に到着して早速五十円アイスバーを物色し始めた郁に、手塚が大きなため息をついた。
「お前、そのために線香ケチったんじゃないだろうな」
 そんな手塚のすねを、郁は「見くびんな!」半ば本気で蹴り上げた。そこで手塚が叫び声をあげなかったのは男の意地ってやつだろうか、と思いつつ、郁はぷりぷりしながらもアイス選びに集中することにした。


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